日々、想う。んで、記す。

プライドを持たない、節操を持たない、愛着を持たない、弱音を吐かない。

個人の感情が、国境を越える

早朝に目が覚めて、ちょっと前に録画してあった、「サンデル 究極の選択」を見る。原発についてサンデル教授から意見を求められた石田衣良さんが、言っていた言葉に「はっ」とした。そういう考え方は実はしたことがなかったなあ、と。以下、抜粋(ちょっとうろ覚え):

いちばん怖いのは、人類が歩みをやめること。火、鉄、自動車、どれも初めて使い始めたときにはリスクがあった。

げに、世界は複雑だ…。いろいろな人の意見を聞いていて、自分の立ち位置がぐらついてきた。僕には、「これ!」っていう思想的な背骨がないなあ。ポリティカル・コンパスとかやってみると、微妙にコミュニタリアンになることが多いのだけど、どうもそんなことないような気がする。完全、個人主義な感じの考え方に触れている気がします。
また、サンデル教授は、ジャン=ジャック・ルソーの言葉も引用:

人道主義の精神は、世界全体に広がると弱まってしまう。私たちヨーロッパ人は日本で起きた災害にヨーロッパを襲った災害と同じだけの衝撃を受けるわけではない。

共感は限定的。国を越えてグローバルな共感はないのだろうか、という問題提起でした。僕としては、実はこれは賛成。共感を国を越えたものにするためには、個人の感情でなくてはだめですよね。司馬遼太郎も言ってました。

「他民族への友情などという抽象的な感情は存在せず、個人に帰せられてしまうのではないか。」(司馬遼太郎街道をゆく 耽羅紀行』)

だからこそ、個人の感情が世界を網の目のように張り巡らすようになればいい、と思います。2003年9月に書いた文章が出てきたので、覚えておくために、これも転載:

そうかも知れないな、と妙に納得したりする。例えば、僕がタイを好きなのはなぜかと考えてみる。それは、友達がたくさんいるからだもんね。でも、この前のタイ〜マレーシアのバス旅行の途中で関わった人たちについては、親愛の情はあまりないな(ほとんど話していないから、それだけで決めるのはアンフェアだけど)。
そう考えると、僕がやりたい教育を通じて国際交流を進め、そこを基点に世界を平和にするというプランの基盤は何だろうか?それは個人の親愛の情なんだと思う。誰も、何も知らないよりはいいと思う。個人的な交流を通じて、みんな基礎のところでは同じことを共有しているんだ、ということを知っていけば、何かは違うはずだ。
いろんな国の子どもたちに、違う文化を尊重する気持ち、分かり合えるかもという希望、共有しているものがあるという事実、を知ってもらいたい。