日々、想う。んで、記す。

プライドを持たない、節操を持たない、愛着を持たない、弱音を吐かない。

思考の整理学、を今さらながら読んだ

帰りの機内で外山滋比古『思考の整理学』を読了。東大生協で売れまくり、というPOPがついていたわけですけど、まあもう古典になりつつありますね。「飛行機人間とグライダー人間」のくだりは、いろいろと考えさせられます。

学校の生徒は、先生と教科書にひっぱられて勉強する。自学自習ということばこそあるけれども、独力で知識を得るのではない。いわばグライダーのようなものだ。自力では飛び上がることはできない。
グライダーと飛行機は遠くからみると、似ている。空を飛ぶのも同じで、グライダーが音もなく優雅に滑空しているさまは、飛行機よりもむしろ美しいくらいだ。ただ、悲しいかな、自力で飛ぶことができない。
学校はグライダー人間の訓練所である。飛行機人間はつくらない。グライダーの練習に、エンジンのついた飛行機などがまじっていては迷惑する。危険だ。学校では、ひっぱられるままに、どこへでもついて行く従順さが尊重される。勝手に飛び上がったりするのは規律違反。たちまちチェックされる。やがてそれぞれにグライダーらしくなって卒業する。
優等生はグライダーとして優秀なのである。飛べそうではないか、ひとつ飛んでみろ、などと言われても困る。指導するものがあってのグライダーである。(p.11)

そして、学校制度は「グライダー人間」を作るために作られたものだ、ってこと。一方で、徒弟制度は「教えない」ことが、弟子が「教えてもらうことをあきらめて、盗み始める」という状態を作る、というふうになっている。

学ぼうとしているものに、惜気なく教えるのが決して賢明でないことを知っていたのである。免許皆伝は、ごく少数のかぎられた人にしかなされない。
師匠の教えようとしないものを奪いとろうと心掛けた門人は、いつのまにか、自分で新しい知識、情報を習得する力をもつようになっている。いつしかグライダーを卒業して、飛行機人間になって免許皆伝を受ける。伝統芸能、学問がつよい因習をもちながら、なお、個性を出しうる余地があるのは、こういう伝承の方式の中に秘密があったと考えられる。(p.18)

このあたり、非常におもしろいなあ。徒弟制度による教育といえば、「正統的周辺参加」とかの概念が書かれていたジーン・レーヴ、エティエンヌ・ウェンガー『状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加を再読しようかな…。直接、すぐに成績が上がったりしなくても、自力で飛べる人間が、自力で考えていろんなことを判断するようにしなければ、この国はこの先、厳しいと思うのですよ。[→メモ:思考の整理学]

思考の整理学 (ちくま文庫)

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