日々、想う。んで、記す。

プライドを持たない、節操を持たない、愛着を持たない、弱音を吐かない。

初心に戻るべく、戦争研究の本を読む

西谷修『<テロル>との戦争 9.11以後の世界』を読了。西谷修さんの本は、学生の頃に『戦争論』を読んで以来。2012年最初の読書として、「世界を平和にしたい」「平和学」という自分のキャリアの原点を見つめ直すため、年末年始に読み込み。数年前に書かれた本ですが、今でもまったく状況は変わらないなあ。
p.64-65に書かれている、「テロとの戦争」のあたりは、ぐぐっと引き込まれます。西谷さんは、「テロとの戦争」を、「敵」を明示せずに市民社会を不断の臨戦態勢あるいは非常事態に置くための、空前の発明だと言います。そして、世界の主要国がこの「戦争」に「貢献」を競ったのは、それらの国家もまたそのような体制をそれぞれの国内に敷くことを意図していたから、だと。

「テロとの戦争」にはあらゆる国家が同じ側に立って参加する。「敵」は定かではなく、状況に応じて名指される。そして「テロ」の危険があるかぎりこの「戦争」は続くとされる。だから「文明国」の一般市民は、警戒怠りないなかで「ふだんと同じ」生活をしていればよいと言われる。そのためには検閲や統制を「常態」として受け入れなければならない。「テロ」は国境を越えるから「敵」は内にも外にもいる。もはや敵と味方に領土を分ける国境に意味もなければ、「戦争」の「前線」もない。それにこの「戦争」には終りを区切る「講和」はない。当事者に、当事者能力を認めないのがこの「戦争」の特徴なのだから。「テロリスト」を指定するのも、それが撲滅されたと判定するのも、「戦争」を発動する国家の側である。そしてこの体制は、「裁き」や「仲介」の審級、つまり「正義」(西洋文明の言語においては、「裁き」と「正義」とは同じ言葉 "justice"である)の可能性にほかならない「第三者」の審級を排除する。(p.65)

どんどん「戦争」は見えにくくなり、当事者が誰かもわからなくなり、仕掛ける側だけがわかる、という状態。うーん、この状況の中、「平和を作る」とは一体どういうことをすればいいのだろうか…と考え込む。何ができる?【→メモ:<テロル>との戦争

“テロル”との戦争―9.11以後の世界

“テロル”との戦争―9.11以後の世界