日々、想う。んで、記す。

プライドを持たない、節操を持たない、愛着を持たない、弱音を吐かない。

「太平記読み」と教育

井沢元彦『逆説の日本史 (16) 江戸名君編 水戸黄門と朱子学の謎』を読了。テーマとしては水戸黄門と朱子学だったのだけど、それ以外のところで、「太平記」がいかに武士階級の教育に意味があったか、とか、そういうことが興味持てたり。かつては「太平記読み」という職業が存在していたんだって。

まず「歴史」や「哲学」を「面白い物語」にして、子供の頃から耳で覚えさせる。世の中には、不幸にもそれだけで教育が終わってしまうような人々もいただろうが、それでも最低限必要なことは身につけられる。
そして、次の段階に行ける者は、次にそれを「読む」つまり「音読」できるように努力する。
その努力は、少なくともヨーロッパや中国に比べれば、はるかに少なくて済む。
平家物語世代」が先に「ギオンショージャ」という「読み」を覚えていて、次に「祇園精舎」がすぐに読めるようになり、見様見真似で書けるようになったように、「太平記世代」は、「コンパクワツネニホッケツノテンヲノゾマン(後醍醐天皇最期の言葉)」を暗唱出来、それが「魂魄は常に北闕の天を望まん」であり、すぐに読めるばかりか書けるようにもなる、という経緯をたどるわけである。
この伝統は、もう一つの素晴らしい伝統ともつながっている。
それは、先に述べた文化の「共有」の伝統である。(p.413)

これ、「声に出して読みたい日本語」のあたりで、齋藤孝さんが言っていることに似ている気がするね。こういうのも国語教育に入れ込んだりできないかな。何かちょっと考えてみようかしら。【→メモ:逆説の日本史 江戸名君編

逆説の日本史 16 江戸名君編~水戸黄門と朱子学の謎~

逆説の日本史 16 江戸名君編~水戸黄門と朱子学の謎~