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プラグマティズムを勉強してみたいな

小川仁志『アメリカを動かす思想 - プラグマティズム入門』を読了。アメリカを動かす思想=プラグマティズムの入門書。

アメリカを動かす思想─プラグマティズム入門 (講談社現代新書)

アメリカを動かす思想─プラグマティズム入門 (講談社現代新書)


高校の頃、倫理の授業で学んだときは、本当にさらっと流されてしまった記憶があります。そして、アリストテレスとかJ.S.ミルとかベンサムとかカントとかヘーゲルとかのギリシャ~ヨーロッパ系の思想の方がなんだか高尚な感じで「真理に近づく」みたいなこととか「道徳とはなんぞや」みたいなことにつなげて語られていた一方、アメリカではプラグマティズム、くらいな感じの紹介でさらっと行っちゃったんじゃなかったっけなあ。
大学生になって、文学部の倫理学の授業とかを聴講していて、「思想を研究する」のではなくて、「行動自体が思想である」という人に興味を持って、鶴見俊輔さんとか本当に大好きだったんですけど、彼もアメリカに留学して、プラグマティズムを日本に持ち帰った人の一人ですね。

プラグマティズムはアメリカ人の思想の下部構造を構成しており、その上に上部構造としてのリベラリズム等の他の思想が載っているような二段階構造でとらえることができるように思います。つまり、プラグマティズムは、意識されざる土台として、他の思想を基礎づけているように思うのです。(p.6-7)

↑ふむふむ。アメリカって国は、本当に嫌いな面もある一方、大好きなメンタリティもある国なので、僕にはプラグマティズムの方があっているのかなあ、と思ったりしています。
教育系の仕事をしている関係では、デューイとかも読んだしね。

「考えるということは、環境をコントロールするための道具である」(魚津郁夫『プラグマティズムの思想』ちくま学芸文庫、2006)
思考はあくまで環境のコントロール、すなわち問題の解決のためにあるという意味です。これは彼(=デューイ)の道具主義ないしは実験主義の本質を言い当てたものといっていいでしょう。かくして思考と行為、理論と実践という西洋哲学の伝統的な二元論は、道具主義のもとで一元的に把握されるようになったわけです。
思考を問題解決のための道具としてとらえるデューイは、必然的に教育に関心を抱くようになります。そこで彼は、自らの教育理論を実践するために、シカゴ大学で実験的な小学校を開設します。
道具主義からすると、学校で学ぶこと自体に意味があるのではなく、学んだことを社会で役立てることが重要になってきます。そこで、学ぶ内容ももっと実社会で求められるものに近づけていく必要が出てくるのです。こうして料理や裁縫、大工仕事なども科目に取り入れられました。いわゆる「技術・家庭」です。彼はあらゆる科目について、知識を実社会でどのように生かすかという視点から教えたのです。
デューイは学校を「小型の社会」ととらえ、学校と社会の間にある壁を取り払おうとしました。ここにも伝統的な二元論を否定しようとする彼の基本的態度を垣間見ることができます。(p.40-41)

「考えるということは、環境をコントロールするための道具である」、ということを教育の根幹として伝えて行きたいと思ってます。だから、考えずに流されてしまってはダメ。一生懸命考えて、行動を選びとる人を増やしたい、そう思って教育の仕事をしています。プラグマティズム、しっかり読みなおしてみようかな。この本で紹介しているローティとかはまったく読んだこともないからなあ。何かのご縁、読んでみようっと。でも、何を読めばいいんかな…。

プラグマティズムの思想 (ちくま学芸文庫)

プラグマティズムの思想 (ちくま学芸文庫)


学校と社会 (岩波文庫)

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