パウロ・フレイレの教育論に興味が出てきた
里見実『学校を非学校化する 新しい学びの構図』という、20年前に出た本を読んだ。問題はあまり変わらないなあ、という感じ。
- 作者: 里見実
- 出版社/メーカー: 太郎次郎社
- 発売日: 1994/10
- メディア: 単行本
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こういう思考的な部分をああでもないこうでもないと考えることは、それはそれで大事だと思うけれど、僕はもっと実践的な部分で生きていたいと思う。もっとプラクティカルなところで勝負したい。そうするともちろん、矛盾を抱えた感じで現場を回すので、「こないだはああやってたじゃないですか?」とかもあるとは思うけれども、それでも現場の問題を解決する方にいたいと思うので、僕は現場で生きていこう。
矛盾なくアカデミックにそれをまとめていくのはきっと僕は不得意。僕は自分の得意なところでがんばるべきだな、と開き直るw
でも、知識としてはなるほどな、と楽しめるところも多かった。パウロ・フレイレによる教育の2つのモデルとか、おもしろかった。(p.39-40)
- 銀行型教育
- 現在の学校の形
- 生徒の頭はからっぽの貯金箱。先生がカバンのなかにいろんな知識をつめていて、生徒の頭にそれを移し入れる。それが学習。
- 知識は常に伝達され与えられるもの。発見したり創造したりするものではない。
- 課題提起型教育
- 人々がみずからの経験のなかからなにかを発見する共同の行為。
- コミュニケーションのなかでみずからの力で、新たに知を形作るということ。
なるほどね。こういうわけかたをするのであれば、後者の方の教育をやりたいなあ。しかし、せっかく「銀行型教育」と比喩を使っているのであれば、後者もそういう感じにすればいいのにね。学習者がより能動的に学びに関わる形。どんな言い方がいいのかな。
他にも、学校で教えるための知識についての文章もよかった。
ぼくらが学び、ぼくらが教える知識は、学校制度や試験制度の枠の外で、なおかつ意味をもちうる知識でなければならぬはずだ。知識は、それを学ぶ者自身の生において、生きた力として発動するものでなければならぬはずである。その生きた力を、とりあえず、ぼくは、「社会を読む力」と定義してみたいのである。(p.107)
そう、学校での学びは、テストでいい点を取るためのものではなく、「社会を読む力」を身につけるためなのだ、と思うのです。うん、この視点はとても好きだな。
ところで、おまけの愚痴。図書館の本に書き込みするの、やめようよ。なんか偉そうなコメントが書かれているけど、君、モラル的にもっと根本でアウトだから、と読みながらイライラするし、人の思考を無理やりトレースさせられるのは本当に辛いw