日々、想う。んで、記す。

プライドを持たない、節操を持たない、愛着を持たない、弱音を吐かない。

『子どもの教養の育て方』を読んだ

 佐藤優 井戸まさえ『子どもの教養の育て方』を読了。おもしろかった。佐藤さんは子どもがいらっしゃらないそうだけど、お母さんである井戸さんときちんと話が通じている。

子どもの教養の育て方

子どもの教養の育て方

 でも、メモをとりたいな、と思ったのは佐藤さんのところが多かったな。まずは、「エリート」についてのところ。

 現在の日本には3つのエリートがいる。第一が「旧来のエリート」だ。この人たちは、古いシステムを動かすノウハウを持っている。公共事業による富の再分配、中央官庁による行政指導による調整だ。しかしその手法は21世紀の現在には通用しない。「旧来のエリート」は歴史から徐々に退場する運命にある。
 第二が「偶然のエリート」だ。政治、社会の混乱期に、急速なキャリアの上昇を行った人々だ。政治の世界では、「小泉チルドレン」「小沢ガールズ」「橋下ベイビーズ」と呼ばれる人々だ。
 これらの「偶然のエリート」には破壊力がある。しかし、複雑な旧来型の国家メカニズムを動かすこともできなければ、未来の日本の社会像、国家像を描く力もない。さらに悪い意味で競争が好きなので、パフォーマンスを重視し、ライバルの足を引っ張ることにエネルギーのほとんどを費やしている。「偶然のエリート」が日本の社会と国家の教科を妨げる最大の要因になっている。
 客観的に見るならば、小泉純一郎政権以後、日本は「偶然のエリート」によって撹乱され続けている。そして、この状況は2012年12月16日の衆議院選挙後も続くであろう。当面、日本は閉塞した状況から抜け出すことができない。
 この状況を抜本的に変化させるためには、第三の「未来のエリート」をつくり出さなくてはならない。現在の小学校5~6年生、中学生、高校生、大学生、さらに大学院生や社会に出て数年以内の若い人々が本物の教養を身につければ、日本は10年後に大きく変化する。
 ソ連崩壊後の混乱の中で、ロシアの知識人は「未来のエリート」の養成に全力を傾注した。私自身がロシアの最難関大学であるモスクワ国立大学哲学部で1992年9月から95年2月まで教鞭をとった経験があるので、あのころの雰囲気が肌感覚でわかる。
 あのとき私の教え子だった世代の若者たちが、現下ロシアの屋台骨となり、あの社会と国家を復活させた。ロシアのエリートは外国語に堪能で、欧米の情報や学術研究の成果を十分に消化しているが、欧米とは一線を画し、ロシア独自の道を進もうとしている。日本の生き残りもこの方向でできないかと私は考えている。(p.6-7)

 第三のエリート、「未来のエリート」かあ。日本ではエリート教育って嫌われるけれど、必要だよねえ。


 次は、インテリについて。『八日目の蝉』をテキストとして使う、というアクティビティの中での話。

 インテリになるため、教養をつけるためには、2つの道があると思います。
 ひとつは学術です。論理によって自分の置かれている社会的な位置を知って、言語化していくことです。
 もうひとつは、小説によって、自分の社会的に置かれている位置を感情で追体験することです。だから、小説は教養の役に立つんです。
 小説は、近代のもののほうがいい。というより、近代より前には小説はなかった。あったのは物語です。小説というのは、自分たちは同じ時間を共有して、同じ舞台にいるんだという、共通の意識を持たせる文学形式です。これは、この200年くらいの間に流行になった文学形態です。
(略)
 その意味でも、『八日目の蝉』は、いまの時代のさまざまな問題を論議するために非常に優れたテキストだったのです。(p.244-245)

 感情移入できる小説や映画などっていうのを、どんどん吸収して、言語化させていく、というのは大事だよなあ。教育カリキュラムに入れられないかなあ。ちょっと考えよう。最高のエンターテイメントコンテンツが、子どもたちの本気を引き出して、教育の質を上げると思うんだよなあ。