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『デジタル・デメンチア 子どもの思考力を奪うデジタル認知障害』を読んだよ

 マンフレド・シュピッツァー『デジタル・デメンチア 子どもの思考力を奪うデジタル認知障害を読了。

デジタル・デメンチア 子どもの思考力を奪うデジタル認知障害

デジタル・デメンチア 子どもの思考力を奪うデジタル認知障害

 まあ、デジタルネイティブが生まれ育っているこの時代、それがいいのか悪いのか、ていうのは、まだまだ長い目で見ていかなきゃいけないんだろうけど、否定派の本も読んでおかなければ、ということで。

 目次からけっこうすごくて。いくつか「おお!?」と思ったところだけ抜粋。

緒言 Googleはわれわれを愚かにするか
第三章 学校:読んで書かないでコピーとペースト?
第四章 脳に登録するか、それともクラウドの中に放り出すか
第七章 保育園にラップトップ?
第八章 デジタル・ゲーム:悪い成績
第九章 デジタル・ネイティブ:神話と現実
第一○章 マルチタスキング:損なわれる注意力

 そもそも、タイトルにもなっている「デジタル・デメンチア」は、デジタル機器を原因とする認知障害であり、「記憶障害、注意障害、集中力障害および感情の皮相化、一般的な感情の鈍麻が増加傾向(韓国の医者グループによる発表)」(p.8)だそうな。

 途中、トーマス・エジソンの話が紹介をされています。いかに教育現場が変わってないか、という話ですよ…。まったく。

電球、蓄音機、映画を発明したトーマス・エジソンは1913年にニューヨークの雑誌でこう言いました。「書籍はまもなく学校では時代遅れになるだろう。人類知のあらゆる分野が映画を使って教えられることもありうる。われわれの学校制度は10年以内にまったく変わっていることだろう」。ほぼその50年後テレビが登場し、同じような楽観的な声が上がりました。ついに文化、価値、知識を世界の隅々までもたらし、人類の教育レベルのことごとくをはっきりと改善できるのだというように。さらにそのまた50年後コンピューターの登場によって学校での学習を一大革新するまったく新しい可能性が語られるようになっています。しかし今度の場合はまったくちがうのだと、多くのメディア教育者たちは強調してやみません。1970年代にランゲージ・ラボやプログラム授業の失敗を見たように、われわれはすでにEラーニングの興亡の証人となっています。コンピューターだけの学習が機能しないことは、この間コンピューター利用に最大の賛辞をおくる人たちの間でも一致した意見となっています。なぜそうなのでしょう。頻繁にコンピューターやインターネットを相手にしている人たちにとって、これはどういうことを意味するのでしょう。
批評家のニコラス・カーは、自分がインターネットを使った体験の結果を次のように書いています。「ネットは私の集中力と思考力を損ねるようだ。今や私の精神は、情報をそれがネットから提供されるままに受け入れることを期待している。すばやく動いたミクロ粒子の電流という形で(…)友達も同じ意見だ。ネットを利用すればするほど、長い文章を書くための集中力を得ようと格闘しなければならなくなるのだ」と。
インターネットや新しいデジタル・メディアがわれわれに何をもたらすのかという問いに対する解答には、たんなる体験報告やメディア効果の実証研究よりはるかに多くのものがあります。ここでは脳の働きについての基礎研究もまた一定の寄与ができます。生化学が代謝性疾患の見方を先鋭化したのと同じように、今日では学習、記憶、注意力、発達のメカニズムについての理解がデジタル・メディアのもたらす危険性をより明確なかたちでとらえることを可能にしているのです。(p.13-14)

 でも、だから「教育現場は…」とダメ出しをしていたってダメで、何ならできるのか、ひたすら考え、実行し、小さな成功事例を少しずつ積み重ねて、うまくいったケースを真似されるように仕掛けていく、ということだろうなあ、と思います。
 そうした実践の連続のなかで、当然、良い点も悪い点も出てきて、0か100かの両極以外の意見もフェアに取り込むような議論ができるようになれば、こうした極端な警告も、フェアに取れるようになるのかな、と思ってます。

 実践の中で、いろんな意見を取り込めるようになっていきたい、と思います。