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苫野一徳『教育の力』を読んだ

 苫野一徳『教育の力』を読了。とてもおもしろかった、勉強になった。

教育の力 (講談社現代新書)

教育の力 (講談社現代新書)

 公教育の目的についてもはっきり書かれていて、

社会を<自由の相互承認>の原理に基づいてつくっていくこと。これだけが、「普遍闘争状態」を終わらせ、わたしたち一人ひとりの<自由>をできるだけ十全に達成させることができる根本条件でした。
(略)
公教育は、すべての子ども(人)が<自由>な存在たりうるよう、そのために必要な“力”――わたしはこれを<教養=力能>と呼んでいます――を育むことで、各人の<自由>を実質的に保障するものなのです。そして後述するように、そのことで同時に、社会における<自由の相互承認>の原理を、より十全に実質化するためにあるのです。(p.22-23)

 これ、とても賛成です。自由な存在であるために、学ばなければならない、ということ。

 それから、自由な存在であるために必要な力能としては、以下のように述べています。

力能とは何か?(p.46-47)
1.学力:覚えこむ力ではなく、学び続ける力
2.相互承認の感度:自己承認、他者承認、他者からの承認の3つ条件が揃って育まれる

 教育を変えればなんでも感でも変わる、ということではないことを理解することが大事、というのは、「たしかに!」と納得。

「教育には何ができないか」をしっかり見極めること、そしてまた、教育を変えればすべてがよくなるという“幻想”やその“無責任”に陥らないこと。教育を考える時、これは極めて重要な視点です。(p.208)

 いやー、いろいろと考えさせられる本でした。勉強になった。

 その他、いろいろのメモは以下にたたみます。

いつの時代にも、教育界にはさまざまな方法論の激しい対立が渦巻いてきました。学力向上のためにはドリル学習こそが重要だ、と主張する人たちと、むしろそれこそが子どもたちから学ぶ意欲を奪っているのだと主張する人たちとの対立、子どもたちの「学び合い」こそが重要だと主張する人たちと、むしろ教師の授業力をこそ向上させねばならないと主張する人たちとの対立など、数え上げればきりがありません。
適切で建設的な相互批判はもちろん重要ですが、時に好き嫌いのレベルで繰り広げられることもあるこうしたさまざまな対立については、いい加減、対立から相互補完的な関係へと、次の一歩を踏み出した方がいい、そうわたしは思います。どちらの方法が正しいかをめぐって争うのではなく、教育の目的を達成するために、状況に応じて、それぞれの方法をどう選択したり組み合わせたり、補完し合ったりすればいいのか、わたしたちはそう考える必要があるのです。
今、わたしたちは教育の最も根本的な「目的」を手に入れました。それは、すべての子どもたちに、<自由の相互承認>の感度を育むことを土台に、<自由>になるための<教養=力能>を育むことです。とすれば次にわたしたちが考えるべきは、ではこの「目的」を達成するために、現代という「状況」においては、そしてその時々の子どもたちや学校の「状況」においては、どのような教育のあり方が最も妥当かつ有効化という問いになるはずです。(p.42-43)

公教育は、企業が求める人材を育成するためにあるわけではありません。(略)その本質は、子どもたちが<自由の相互承認>の感度を育むことを土台に、<自由>になるための<教養=力能>を育むことにあるのであって、単に優秀な企業人を輩出するためにあるわけではありません。
しかし、まさに<自由>に生きる、つまりできるだけ生きたいように行きられるようになるためにこそ、わたしたちはその一つの大きな条件である職業について、十分考慮に入れないわけにはいかないのです。子どもたちの<自由>を実質化するものとしての教育にとって、職業に就く“力”を育むことは、一つの重要な責任であるからです。(p.54)

デューイ・スクール=シカゴ実験(室)学校 (p.122)

『学校と社会』という本の中で、デューイはこういっています。子どもたちには、本来四つの本能的欲求のようなものがある、と。ひとつは、物を発見したいという欲求、二つめは物をつくりたいという欲求、三つめは自らを表現したいという欲求、最後にコミュニケーションへの欲求です(デューイ1998、107-111ページ) (p.122)