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『コトバと数学の教育を考える 科学的・体系的な教育とは何か?』を読んだ

 数学教育研究会『コトバと数学の教育を考える 科学的・体系的な教育とは何か?』を読了。算数を学べるカリキュラムを…というリクエストをうけたのだけど、ただ算数だけじゃおもしろくないので、それに論理とかを組み合わせていきたいな、と。で、そのための参考資料探していて見つけた本。

コトバと数学の教育を考える 科学的・体系的な教育とは何か?

コトバと数学の教育を考える 科学的・体系的な教育とは何か?


 最初は国語について(鈴木)

文科省の国語教育で扱われている文法というのは、学校文法といわれていますが、国際的な言語学のレベルでは、ちょっと通用しない。独特の考え方なんです。だけど、それを文科省が守っているのですね。それはどうしようもない。未然・連用・終止・連体、「か・き・く・く・け・け」とか、いま、そういうような文科省の学校文法で、現代日本語の研究をしている人は、まったくいません。(p.98-99)

国際的な言語学に準拠した日本語教育だったら、「現在形」「過去形」とか、「現在の言い方」「過去の言い方」というような扱い方をする。(p.99-100)

 これ、けっこう目からウロコな感じがする。外国人の友達に、日本語の文法を訊かれると、実はちゃんと説明できないんだけど、それってこういうところと関係するのかな、と。他の外国語と同じように、「現在形」とか「過去形」で勉強したほうが楽なのかな…。でも、言葉が規則的に変化するわけじゃないしな…。そう簡単でもないのだろうか。


 それから、外国語に関して(上村)

日本人が外国語を学習するのは、臨界後期です。臨界前期(0歳から8歳ぐらいまでの時期)に、ごく自然のうちに、無意識のうちに身につける母語とは異なります。
臨界後の外国語学習は、母語の言語能力を基礎として、外国語の文字(アルファベット)を覚え、文の構造やその素子としての簡単な単語の意味やスペルを学ぶ必要があります。
はやくから英語を教えれば、国際的なコトバのつかい手になれる―というような幻想があるとしか思えません。(p.102)

 僕自身は、「外国語はけっこう後からでもいいんじゃないの?」と思っているのですが、それよりも、結局こういうことを全然考えずに、ただ早くから勉強すればいいんでしょ?みたいに思っているところがそもそも問題じゃないかな、と。
 小さい頃からちゃんと多言語で育つ子もいるし、アイデンティティをうまく持てない子もいる。ただ、「どう学ばせるか」をきちんと議論しないまま、ただ「早くから始める」のは、解決にならないと思うのですよね。


 本の後半では、いよいよ数学の方に入っていくのですが、その前に、「教育の原則」について触れられていました。これ、とてもいい言葉だと思ったのでメモ。

  1. 本質的なことを教える。
  2. 不必要なことは教えない。

これが教育の原則です。とくに、はじめて学ぶことについては、その意味をよく理解させるようにしたいものです。(p.139)

 この本、ベースになっているのは数学教育研究会の実践です。で、「水道方式」というのをやっているようです。
 わり算について、それをプロセスに分ける、というのが書かれていて、この考え方が非常におもしろいな、と思いました。こうやって要素に分解して教えるのって、どこかで定型化されていないのかなあ、と探しているのです。
 こうしたプロセスの定型化の上に、先生方の個性が乗っかって、子どもたちの学びの特性というかタイプに合わせて使い分けられる、というのが理想の教え方だなあと思っているので。

水道方式を考えついた当初(1958年)から、わり算には、


 たてる→かける→ひく→おろす


という4拍子があることがわかっていた。そして、この4拍子をリズミカルにくりかえすことが長除法をたのしくわからせるコツになっていた。この4拍子は子どもにとても歓迎された。
しかし、これはまだ筆算という行動の分析にすぎなかった。除法というのは、もともと均等分配という動作に起源をもつから、分析はそのもとである分配動作にまでおよび、それを基礎に筆算操作を合理的に説明しようということにすすむ。そうした場合、除法ではまことにうまく事がはこぶのである。
その意味で、わり算こそは、行動学的分析の絶好の場なのである。(「人間行動から見た数学」銀林浩 / 明治図書)(p.158)

 いろいろ参考になりました。さて、企画の方に活かしていかなければ。