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日々、想う。んで、記す。

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プラグマティズムをきっかけにいろいろと考える(大賀祐樹『希望の思想プラグマティズム入門』)

book work

 大賀祐樹『希望の思想プラグマティズム入門』を読了。プラグマティズム、ものすごく興味があるのです。

希望の思想 プラグマティズム入門 (筑摩選書)

希望の思想 プラグマティズム入門 (筑摩選書)


 僕は現代思想とかに大学時代にすごく興味があったけれど、自分の行動指針となるような思想が欲しくって、正直「真理はどうやってわかるか」とか「社会の構造はどうなっているか」とか、あまり興味が持てなかったのです。そのなかで、実用主義的な、「行動することに背中を押してくれそうだった」プラグマティズムは、とても魅力的だったのです。鶴見俊輔とかを好きだったのも、絶対にこの影響だと思う。


 で、プラグマティズムって何か?っていうと、こんな感じ↓

アメリカには「プラグマティズム」と呼ばれる哲学がある。日本では「実用主義」と訳されている。通常、「実用」という言葉で私たちがイメージするのは、具体的な生活の場面ですぐに役立つこと、といったものだろう。そんな連想を生む訳語が当てられたためか、長らくプラグマティズムは、日本の哲学界で主流となることはなかった。しかし、「唯一の正しさ」など存在しないと感じられる現代社会にあって、プラグマティズムは、重要なヒントをいくつも与えてくれる。
というのもプラグマティズムは、どんな問題でも解決できるような「唯一の正しさ」には到達し得ないにせよ、その時々のトラブルを解決する上で有用な「それなりの正しさ」にはたどり着けるし、そのことが重要だと私たちに教えてくれるからだ。
「超人」にはなれない平凡な私たちは、何かを「正しい」と信じられなければ、一歩も先へ進めなくなってしまう。今日より明日は、少しはマシになるだろう。その全てではないにせよ、望みはいつか叶うだろう。そう信じられるからこそ、私たちは生きていられる。プラグマティズムは、そんな私たちの生を肯定する、「希望の思想」なのである。(p.11)

 絶対真理なんてどうでもいいけど、「今日より明日は、少しはマシ」とか、それくらいの感じでいいのよね。
 最近の教育周りでいろいろと言われている「探究」というのもキーワードとして出てきたのでメモ。

探究とは、ある文化を背景にして、社会的に条件づけられた活動なのであり、いついかなる場合でも該当するような解答を出すためのものではないのである。
そうした探究から得たもののことを、デューイは「保証された言明可能性」と呼んでいる。それは一般的には「信念」あるいは「知識」と呼ばれているもののことだが、あくまでそれは、「探究」の出発点にあった疑問に対する解決法であって、ありとあらゆる状況において通用するものではない。したがってそれは「絶対知」のような最終到達点ではなく、あくまで暫定的なものであり、ふたたび疑問が生じれば修正されるようなものなのである。
比喩を用いて説明するなら、「探究」によって得た答えとは、試行錯誤の末に出来上がった、多少不都合はあるものの、鍵のかかった箱を開けるための合鍵のようなものである。「探究」が目指すのは、鍵のかかった、いかなる箱でも開けられるような万能の鍵を作り出すことでもなければ、その箱についていた、最初の鍵を探し出すことでもないのである。
以上のことから分かるように、デューイにとって「知識」とは、ある問題をうまく解決するためのものであり、言ってみれば、そのための「道具」なのである。(p.39-40)

 知識は道具。だから知識をたくさん得なければいけない。

一般的に科学の進歩は、コペルニクスニュートンといった偉大な科学者が革新的な理論を提示することで「真理」へと近づいていく歴史としてイメージされている。しかし、プトレマイオスの天動説にしても、アリストテレスの力学にしても、すべてが不条理で間違っていたとは言えない。それぞれの理論が前提とするパラダイムからすれば、うまく説明できていたのである。過去から現在へと科学は進歩してきたという歴史観は、「革命」の勝者によって上書きされたものでしかない。そうではなく、パラダイム転換による基礎理論の変化として科学の発展を捉えたほうが、いっそう的確なのである。そして、新しいパラダイムの下で確率された科学は、それ以前の科学よりも、多くの事象をうまく説明できたり、効率的な技術の開発にいっそう役立ったりするかもしれない。しかしそれは、より「真理」に近づけたということではない。その分野の研究者たちのあいだで、ある問題をうまく解決するための、「より効率のいい道具」として採用されたにすぎないのである。この観点からすれば、アリストテレスの力学よりもニュートン物理学のほうが、「道具」として優れていたということになる。いずれにおいても、その理論を支えるパラダイムがそれぞれ存在し、そこで「正しい」とされたことは、その体系内部においては正しかったのであり、そこに優劣はない。(p.50)

プラグマティズムにとっての「真理」とは、世界をありのままに写し取る「鏡」のことではなく、なにか問題が生じたときにそれをうまく解決するための「道具」のようなものである。したがって、道具の種類は少ないよりは多いほうがいい。たとえば、金づちとノートパソコンがあれば、大量の情報処理をするときにはノートパソコンを使い、釘を打ちつける必要があるときには金づちを使ったほうがうまくいくというように。
さらに言うなら、ここで言う道具は、新しければ新しいほど優れているというわけではない。ある問題を解決する上で有益でなければ、その道具はいくら新しくても、殆ど使われることなく、道具箱の中で埃をかぶっている他ないのである。しかしそれは未来永劫、一顧だにされないというわけではない。問題が新たに発生した際に、それをうまく解決するための「道具」として再発見されるかもしれないのである。(p.198)


 公と私についてのデューイの話もメモ。このあたりの感覚、自分自身が持っているものと非常に近くて、今後いろいろ考えていくときのヒントになりそうだな、と思った。

デューイは、ある人の行為が、どれくらいの人びとに影響を与えるのか、その範囲の広狭によって、「公的なもの」と「私的なもの」とが区別されると考えていた。ある行為による影響の範囲が、それに直接かかわる人にのみ限定されるのであれば「私的」、第三者にまで影響が及び、何らかの制御が必要になるような場合であれば「公的」である。そして人びとは、「公的なもの」による影響を、力を合わせて制御するために、さまざまな集団や組織を作ってきた。それが、デューイの考える「公衆」である。
誰しも人は、一人では生きていない。複数の人間と結びつき、相互に影響を与え合いながら生きている。つまり、個人として行なったことでも、周囲の人びとへ何らかの影響を及ぼしているのであり、逆に個人は、周囲からの影響を完全に遮断することはできない。このような観点から言えば、ある行為が公的であるか私的であるかは、どのような立場の人間がその行為を行なったのか、いかなる場でそれが行なわれたのかとは関係がない。
たとえば政府の要人であるAとBが会話をしたとしても、そのことによる影響がその二人以外に及ばなければ、それは私的な事柄である。これに対して、民間のある個人が私費を投じて道路を造った結果、多くの人がそれを利用するようになったとすれば、それは公共的な事柄である。その道路によってもたらされる種々の影響をコントロールするには、人びとが力を合わせて何らかの組織を作る必要があるだろう。つまり、ある行為が公的であるか否かは、その行為者の社会的な立場とは関係がないし、その行為者の意図とも関係がなく、結果的にどのような影響がどのような範囲に及ぶのかで決まるのである。
このような発想の利点は、次のような点にある。たとえば、国家の本質とはなにか、人間にとって国家とはなんであるかをめぐる論争は古代から続けられ、さまざまな答えが出されてきたが、すべての人が納得するような答えはいまだ見つかっていない。もし唯一絶対の正しい解答が存在していたなら、どんな時代であれ、どんな地域であれ、地球上の国家はすべて同じ理想を目指しているはずである。しかし現実にはそうなってはいない。だとすれば、国家の本質や公共性の本質について、決着のつかない「神学論争」を繰り広げているよりも、現に人びとが国家を形成し、公共的な営みを行なってきたという事実から、考察を始める必要があるのではないだろうか。(p.100-101)


 インターネットによって幅広い意見に接することができるようになる、というのは考え方としてはそうだけど、でもみんながそういう方向には行かないかもしれないな、と思ったのが、以下の部分。

インターネットが普及し、主たる情報源がインターネットになると、第三章でも論じたように、多くの人びとは、自らの関心に基づいて検索をし、関心のあるところ、共感できるページばかりを読むようになるので、異なる意見に直面する機会が減ってゆく。そして、いっそう過激な意見が醸成されてゆく場合も少なくない。このようにして私たちは視野狭窄へと陥っていくのである。
そうなると、自分とは異なる意見を認めず、頭から否定するようなことが続発するようになる。しかも、マスメディアが主流であった時代であれば、個々人の声は、新聞の投書欄に載るぐらいで、あまり顕在化することがなかったのに対して、今や、SNSやブログ、ネット上の掲示板などで、匿名で自らの意見を発信できるようになっている。しかもそれが、瞬く間に拡散していくことも珍しくはない。こうした中で、ある種の政治的な意見をもつ個人が街頭デモに参加するようになることもあるだろう。デモに参加すれば、いっそう過激な主張の持ち主と出会うこともあるかもしれない。そのような集団に属する限り、いくらそこで議論をしても、人びとは、自分の似姿と対話をしているようなものである。こうしてその集団は過激化してゆき、政治にも積極的にコミットするようになる。他方で、そのような行動を取らない圧倒的な大多数は、政治にほとんど関心がなく、むしろ、過激な集団が政治的な主張を声高に叫ぶので、ますます政治から距離を置くようになってしまう。(p.204-205)

 現状、ヘイトスピーチなどなども状況を見ていると、こっちの方がありうる方向性なんじゃないかと残念ながら思う。
 では、どうするか?多様性を受け入れること、寛容であること、かなあ。

いま私たちにとって必要なのは、次の二点である。ひとつは、多様な「信念」の持ち主と、偶然に満ちた出会い方ができるようになり、自己のありようも、その都度再編されていくようになること。もうひとつは、自分とはまったく異なる価値観の持ち主も、自分とは異なる観点から、「よりよい社会」を目指し、「正しい」と思うことを主張しているということを理解できるようになること。この二点をより多く実現することで、リベラルで民主的な政治文化が公共的な政治文化として、より多くの人に共有されていくことになるだろう。そのことはまた、自己の信念の多様性と、異なる意見の持ち主に対する寛容な態度を、いっそう培うことになるのである。
プラグマティズムとは、相容れない「信念」をもち、対立し合う人びとが、そうした相剋を乗り越えて連帯し、一つの「大きなコミュニティ」を形成するための指針であり、共生を可能ならしめる思想なのである。(p.205-206)


 ものすごくいろいろと考えるきっかけになる本だった。正直、仕事がバタバタと忙しい今、原典にあたっている時間はないのだけど、こうしてコンパクトにまとまっている解説書を読んで、「これは!」と道具として使って、次の仕事に活かしていきたいな、と思います。