ピーター・M・センゲ『学習する学校 子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する』を読み終えた(やっと…)
ピーター・M・センゲ『学習する学校 子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する』を読了。
学習する学校――子ども・教員・親・地域で未来の学びを創造する
- 作者: ピーター M センゲ,ネルダキャンブロン=マッケイブ,ティモシールカス,ブライアンスミス,ジャニスダットン,アートクライナー,リヒテルズ直子
- 出版社/メーカー: 英治出版
- 発売日: 2014/01/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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ものすごく分厚い本で、800ページ超。持ち歩いて電車の中で読むのがしんどかった(笑)「学校で学習する」とかではなくて、「学習する学校」なのです。いろいろな角度から書かれているので、読む人によって、どの部分が役立つか、というのは変わりそうだな、と思いました。つまり、800ページ完読しなくてもいいと思う。
以下、気になったところなど、メモ。まずは、最も大きなメッセージだろうと思う、部分から。
ピーター・センゲの論考「産業化時代の教育システム」(54頁)をはじめて読んだ時に受けた衝撃を私は今も忘れない。近代の学校教育というものがその発端から産業化時代の産物であったこと、それは高度産業化社会がもたらした社会と自然の破壊に図らずも貢献するものであったことを明瞭に説得する論文に出会い、目から鱗が落ちる思いだった。本書は、私たち産業時代の教育システムで育ったものすべてに、自らが経験し育てられてきた学校を振り返り、未来に向けて「学び直せ」と迫ってくる。学校は「教える」組織から「学ぶ」組織に変わらなければならない。そうしなければ、学校は子どもたちに過去のメンタル・モデルを継承するだけで、彼らが、やがてまだ見ぬ未来の課題に立ち向かって生きる力を身につけさせることはできない。(p.3)
「学校は「教える」組織から「学ぶ」組織に変わらなければならない。」という部分、とても大事です。
組織学習の5つのディシプリン。あらためてこうしてまとまっているのはいいな、と思います。
組織学習の「5つのディシプリン」(p.20-22)
- 自己マスタリー
- 自分の今日の生活がもつ今の現実を現実的に評価しながら、自分の個人的なビジョン(人生の中で最も生み出したいと考える成果)について一貫性あるイメージを開発する実践のこと。
- 共有ビジョン
- 集団的ディシプリンはお互いが共有する目的に焦点を生み出す。共通の目的をもつ人びとは、生み出したい未来、そうした未来に辿り着くために使いたい戦略、原則、指針となる実践の共通イメージを育てることで、集団や組織の中にコミットメントの感覚を養い育てることを学べる。
- メンタル・モデル
- (自分自身あるいは周囲の人の)態度や認識についての気づき(意識)を高めることに焦点が合わせられる。教育に関して見られる大半のメンタル・モデルは「議論の余地がないもの」であり、よく見えないことが多い。したがって「学習する学校」が行うべき重要な役割の一つは、危険な、人を当惑させるようなテーマでも、誰も傷つけず安心して、また安心して、また生産的に話せる能力を発達させること。
- チーム学習
- 「ダイアログ」や「スキルフル・ディスカッション」などのテクニックを使うことで、小さなグループの人々は、エネルギーや行動を共通の目標を達成するために使い、集団的思考のあり方を変質させ、バラバラのメンバーの能力を単に足し合わせた以上の知性と能力を引き出すことができる。
- システム思考
- 相互依存症や変化をよりよく理解することを学び、それによって、自分たちの行為によって起こる帰結を形づくっている諸々の力に、より効果的に応じられるようになる。システム思考とは、最も建設的な変革を達成するためのレバレッジを見出すための、強力な実践である。
ちょっといい言葉。
「子どもを教えたことのある人は、科目で教えるべきことが何かを知っても、子どものことをよく知らなければ本当には教えられないことを知っている」とエドワード・ジョイナーは言う。(p.78)
乗り越えるべき、産業化時代の学習、産業化時代の教育、とは、どんな考え方にもとづいているのか。
産業化時代の学習についての考え方(p.67-81)
- 子どもは「欠陥品」であり、学校は子どもを「修理」する
- 学習は頭の中で起きるもので、身体全体で起きるものではない
- 誰もが同じ方法で学ぶ、または学ばねばならない
- 学習は教室の中で行われ、世界で行われるものではない
- 「できる子」と「できない子」がいる
産業化時代の学校についての考え方(p.82-91)
- 学校は管理を維持する専門家によって運営される
- 知識は本質的にバラバラに分節化される
- 学校は「真実」を伝達する
- 学習は個人的なもので、競争が学習を加速する
恐竜の足あとについて子どもたちと考える実践が紹介されていて、これけっこうおもしろいと思いました。(p.158)
Jack Hassard, "The Dinosaur Footprint Puzzle: A Content or Process Approach?," The Art of Teaching Science Blog, November 2, 2010, http://www.artofteachingscience.org/?p=3081
新しい教育が必要になってくると、それをどう評価していくか、というのが問題になります。21世紀型スキルとかも同じかな、と。ただ正確に記憶し、それを正しく取り出せるというインプット・アウトプットではなくなってくるはずで、そうすると何で「成長を測るか」というのは大事かな、と。これについてもまとめてありましたので、メモ。まあ、これは「何を」測るか、ではあるけれど、「どう」測るか、はまだ残るけれども。
教員や親が、観察し記録できる知的成長には、少なくとも16の重要な特性がある。(p.359-372)
- 忍耐強さ
- 衝動の抑制
- 理解と共感をもって耳を傾ける
- 柔軟に思考する
- メタ認知(自分自身の思考について考える)
- 正確さと精密さを追求する
- 質問し、問題を設定する
- 過去の知識や経験を引き出す
- 創造し、革新し、発明する
- 明瞭かつ正確に、考えて伝達する
- 全感覚を使ってデータを集める
- ユーモアのセンスを発揮する
- 驚きと畏敬をもって応える
- 相互依存的に思考する
- 責任をもってリスクを冒す
- 継続して学ぶ
チェックインというアクティビティ。やったことはないのだけど、自分でもしクラスを長期にわたってもつことがまたあれば、やってみたいな、と思いました。(p.383-384)
「チェックイン」にはいろいろなやり方がありルールはほとんどない。生徒の中には、抱えている問題や成し遂げたことについて話す者もいるかもしれないし、自分のものの見方について何かひとこと言う生徒もいるかもしれない。1分ほど沈黙して心を集中して、「準備できました」と言うだけの生徒もいるだろう。毎日やる必要はないが、月曜日と金曜日にやることで、安定した一週間の枠組みが決まる。どの人も話す機会をもち、話すときはグループ全体に対して話す。恥ずかしくて話せない、話したくない生徒は、強制されるのではなく「パス」と言えばよい。ただしその「パス」という言葉ははっきり、他の生徒に聞こえるように言わねばならない。
聞き手は、何かに答える義務なく話し手の話に集中できるので、お互いの真価を深く認め合えるようになる。授業時間に余裕がないときは、「一言チェックイン」を使えば数分で済む。全員で円をつくり、各人が「紫」「走る」「バスケットボール」といったように、一言だけ言う。順番に回る形式のほうが気楽だ、という生徒もいれば、話したい子から順に最後まで話すほうがいい、と言う生徒もいるだろう。どちらの場合も誰かにストレスを生むが、個々の生徒の異なるニーズやスタイルを知るためには優れた方法だ。
チェックインのときにも使う、会話の枠組み。
会話の枠組みをつくっておく(p.386)
- 他の人が発言しているときは、よく耳を傾ける。
- 沈黙を尊重する。言われたことに反応するには空白の時間も必要。
- 人の話を遮らないように。お互い最後まで話し終えられるように。
- 他の人の発言に対して「正しい」「間違っている」「鋭い」「馬鹿だ」といった評価を下さない。
- 「そうですね、でも(Yes but)…」という言い回しは禁止。そうではなく「そうですね、しかも(Yes and)」という言い回しでコメントを承認し、クラスの会話への貢献を認める。
概念を勉強するために、シチュエーションを作って考える、という実践事例として、動物園の話が紹介されていました。これもおもしろそう。
「蓄積」の概念を明らかにする動物園訪問(p.415-416)
架空の動物園に見立てた長方形を作り、動物園に入る時間と出る時間を決める。午前9時、4人の子が動物園に入る。10時になると6人が入る。11時には5人が入るが3人が出てくる、というようにストック・フロー図を学べる。
システム・リテラシーの話。
リテラシーをもつとは外国語や数学など、特定の科目についてよく教育を受け、深く理解していることを意味する。多くの分野において、知識というものは、人が利用できるに値するほど包括的で可能性に満ちたものでなければならない。システム・リテラシーとは、複雑な相互関係性についての、そうしたレベルの知識のことだ。それは概念的知識(システム原則やシステム行動についての知識)と理由づけのスキル(さまざまな状況をより広い文脈に位置づける能力、一つのシステムの中に多様なレベルの観点を見出す力、複雑な相互関係を追う力、内面的あるいは「システムの範囲内にある」影響を探す力、時間の経過と共に変化する挙動に気づく力、幅広い種類のシステムの中にあって反復的に起きるパターンを理解する力など)とが組み合わされたものだ。
(略)
子どもがこうしたシステム・リテラシーを身につけると、自然と他人に対してこれまで以上に大きな共感をもつようになる。そうした共感はそこで優勢な文化のために抑圧されていることが多いが、経験や学習を重ねることでこの抑圧の覆いが取り除かれ、人間の気質の一部として引き出されてくる。子どもが自分と他の人々、他の場所、他の出来事、他の種とのつながりを探し求めるようになるとき、彼らは自分が他人の世界を外からこっそり覗き見る外部者だとは感じなくなる。彼らは、農民が土とつながり、鮭が川とつながるように、既に内部者として他者とのつながりを経験する。
また、システム・リテラシーを身につけると、子どもは自分を自然の外にあるものとしてではなく、その一部と見なすようになる。(p.452-453)
そして、システム・リテラシーをどう育てるか、という話。
子どものシステム・リテラシーを育てるための対話や活動の例(p.460-466)
- 「もの」そのものだけでなく、「もの」と「もの」との関係について話をし、手本を見せる。
- 慢性化した問題の基底にある構造的パターンを明らかにするために、システム図を用いる。
- 子どもが点と点をつなぐのを助ける。
- 時系列変化について話をする。
- いくつかのシステムに一貫して存在するパターンを認める。
- 同じ「システム」を異なる観点から見る。
- ストックとフローの違いを話し合う。
- システム内の行為者による影響を探す。
- 意図せずして起きる結果を予測するために先を読む。
- 見ているシステムの完全無欠の状態について話し合う。
- 非線形的な動きについての考えを導入する。
- 非線形的動きについて考えるのにことわざが役に立つことがある。
最後に、「うん、まったくだ」と頷いた部分。さて、我が国は…。
どんな国家の教育制度も、それがどれほど優れているかは、その制度下にある学校を見ればわかる。1997年来、シンガポールの学校は、自分たちで生み出した共有ビジョンが示す針路を辿ってきた。このビジョンは「考える学校、学習する国家」というフレーズに集約されており、シンガポールにあるすべての学校を「考える学校」にすることを想定していた。「考える学校」とは、批判的かつ創造的思考と、アクティブで主体的な学習によって充たされた「るつぼ」のことで、そうした学校では教職員と生徒が、継続的に、お互いの前提に疑問を投げかけ、よい問いかけをし、(自分と他人の)過去の失敗から学び、地球規模での最善の実践を探求し、そこでの学びを現場に適用する。私たちの見方では、「考える学校」とは「学習する国家」の基盤であり、そこでは人々は知識社会及び知識経済の中で生涯に渡る学習とたゆみない成長とに人生を捧げる。(p.737)