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『予備校が教育を救う』を読んだ

 丹羽健夫『予備校が教育を救う』を読了。僕は学習塾が最初の就職先だったこともあるし、今も学習塾業界の人たちに大変お世話になっていることもあり、「予備校が教育を救う」というタイトルに、ちょっとまあ言い過ぎ?くらいは思うものの、まあ全然いいんじゃない?と思って読み始めました。

予備校が教育を救う (文春新書)

予備校が教育を救う (文春新書)

 なんていうか、いいですね。熱き時代のことが読めるなあ、と。人気講師の授業準備の仕方とか、非常におもしろい。「段取り8分、本番2分」とか、習ったなあ。「はちふん」じゃないですよ、「はちぶ」ね。

予備校人気講師のヒミツ
とはいえ、人気講師には共通した特徴がある。まず発声である。やさしくよどみなく、包み込むように語りかける講師もいれば、いささか弁論部口調で歯切れよく、それでいて充分間も意識して演説する講師もいる。しかし、いずれの場合も声がよく通り、話し方に説得力があることが特徴だ。
次に発声や話し振りよりも重要な共通点は、いずれも予習に大変な時間を費やしていることだ。たとえば前年もほぼ同じテキストで講義をしているが、その年としてははじめての授業の場合、九十分の授業一講に備えるために、平均して七時間は予習をするのである。
そしてその予習の仕方の共通性が興味深いところである。前半でシナリオをつくる。そして後半でシナリオをたどりながらしきりに考え込む。何を考え込んでいるかというと、言葉探しをしているのである。
授業の冒頭でテーマや問題点を明瞭に理解させるには、どの言葉、どういう表現が一番インパクトがあるだろうか。結びのキーワードはどうしたら印象的か。人気講師たちは共通して、言葉の威力、言葉の奥深さ、そして言葉の恐ろしさを知っているのだ。
不人気講師が人気講師になろうとしたら、これを真似すればいいのであるが、ことはそう簡単ではない。人気講師、不人気講師の間には素質の壁がかなりの大きさで横たわっているように思えてならないのである。(p.60-61)

 高校と予備校の分業が今なんとなく僕が思っているのと、かつては逆だったのだなあ、ということにはびっくりした。1985年頃の話で、こんなことが書かれていた。

かつて高校と予備校の間には不文律の分業があった。それは予備校のひとりよがりかもしれないが、確かに分業があった。高校では教科の本質を教える。教えるというより伝える。数学の教師ならば、私がなんで数学に熱狂して、ついに数学教師にまでなってしまったかを、「ほら、数学はこんなに美しいんだよ。まるで芸術じゃないか」と、揺るぎなき論理展開の過程で生徒に伝えていく。そして、なぜ人類は数学を手に入れたかを語り継ぐ。生徒たちはこの世の確かなものを形而上学的世界に見出して目をみはる。国語の教師ならば、なぜ俺が『古事記』の世界に取りつかれてしまったかを、倭武(ヤマトタケル)の章をプリントして古代の物語を語る。
それらはいずれも問題の正解とは直接関係のない世界である。高校では入試問題の正解とは直接関係がなくとも、このように教科の本質に横たわることどもを教えた。
そして大学入試問題の正解を出す技法は予備校が教えた。
贅沢すぎる教科の知性を身に纏った生徒を相手に、問題解法の技術を伝授する時こそ、予備校講師の至福の瞬間であった。数学ならば、こういう手もある、こういう手もある、といくつもの別解を手品のように出してみせる。そして最後にこれが一番エレガントな解法だ、という切り札を出してみせる。生徒たちは熱狂して拍手を送る。
あの夢のような分業の日々は消えてしまったのか、と教務部長は考える。
それは高等学校の先生方のせいではない、すべてはあのベビーブームのせいだ。先生方も嵐の被害者なのだ。教科の本質的授業などやっていては昨今の入試競争には勝てない。勝てなければPTAや県教委から叱られる。だから手っ取り早く入試に対応するために、正解発見の授業に走らざるを得なかったのだ。予備校のお株を奪わざるを得なかったのだ。
予備校の講師たちこそ、とんだとばっちりを食ったものである。その上にあぐらをかいていた、伝来の古典的技法を高校に奪われてしまったのだ。それでも授業料をいただいている以上、生徒の学力を上げねばならない。そこで考えぬいた末、高校でなおざりにされた唯一の隙間、教科の本質的授業に走らざるを得なかったのである。(p.125-126)

 結局、ベビーブームによって学校と予備校の関係は入れ替わるわけだけど、ベビーブームが去っても、もとの分業に戻るかといえば、戻りはしなかったのだそうだ。「以前にやっていた授業だから戻れるかといえばそういうわけではなかった。」ということなのね。そういうことを考えると、いまのアクティブラーニングとか、怖いなあ。


 それともうひとつ、生徒の学習スタイルによる違いによる記述がおもしろかった。(p.129)

第二次ベビーブームが残した爪あとで、もうひとつ見過ごせないものがある。納得型の生徒の成績的沈殿である。

  • 納得型:
    • 極端に言うと、先生の話すこと、教科書や書物に書いてあることは、森羅万象に照らして本当なのかという、疑いの目でもって受け止める。
    • よく質問に来る。質問はどこか型破りなことが多い。
    • 質問や疑問を一緒に先生に考えてもらって、充分納得すると大変喜んで学習意欲を燃やすし、学力的に目覚ましい進歩をするのが特徴。逆に充分納得できる答えが得られないと、考えこんでしまって、なかなか先に進めない。
    • 記述式、論述式の問題に強いという傾向がある。紋切型の答えを要求されるテストパターンよりも、知的攻撃力を求められる場合に強い。
  • 理解型、肯定形、予定調和型:
    • 常に肯定的である。授業を受けるとき、先生の話すことはすべて正しいという前提で受け入れる。教科書に書いてあること、書物に書いてあることもすべて正しいという前提で理解する。
    • 多少の出題ミスがあっても、出題意図を組んで答えてくれる。
    • ペーパーテストで勝ち組になる。成績を上げる生活の知恵に満ちている。
    • 先生からの受けはいいことが多い。

 納得型の生徒は、面倒くさいけど伸びるというか化けるというか、そういうのが多いので、教えると楽しいけど、まあ大変ではあるわなあ。これから入試制度が変わって、納得型の生徒たちが評価されるようになってくるのだと思うけれど。このあたりも注意しながらいろいろ注意してみていきたいな、と思った。