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東京造形大学の2013年度入学式 諏訪学長による式辞 「経験という牢屋」

東京造形大学の2013年度入学式 諏訪学長による式辞がネット上で話題になっています。テーマとしては「経験という牢屋」。以下、途中の部分を抜粋。

本日は、学長というよりひとりの卒業生として、私が学生時代に体験したことを少しお話ししてみたいと思います。


 私は高校生のときに一台のカメラを手に入れました。現在のようなデジタルビデオではなく、8ミリフィルムを使用する映画カメラです。そのカメラで、自分の身の周りのものを撮影するようになると、自然に自分の表現として映画を作りたいと思うようになりました。映画館で上映されているような大掛かりな映画ではなくて、絵画のように自由に表現するささやかな映画を作りたいと思い、私は東京造形大学に進学しました。入学式に臨んでいた私は、高揚し、希望に溢れていたと思います。


 しかし、大学での生活が始まると、大学で学ぶことに対する希望は、他のものに取って替わりました。地方から東京に出てきた私は、時間があるとあちこちの映画館を飛び回り、それまで見ることができなかった映画を見ていましたが、そこで偶然に出会った人たちの映画づくりをスタッフとして手伝うようになりました。まだインディペンデントという言葉もなかった時代、出会った彼らは無名の作家たちで、資金もありませんでしたが、本気で映画を作っていました。彼らは、大学という場所を飛び出し、誰にも守られることなく、路上で、自分たちの映画を真剣に追求していました。私はその熱気にすっかり巻き込まれ、彼らとともに映画づくりに携わることに大きな充実感と刺激を感じました。それは大学では得られない体験で、私は次第に大学に対する期待を失っていきました。大学の授業で制作される映画は、大学という小さな世界の中の出来事でしかなく、厳しい現実社会の批評に曝されることもない、何か生温い遊戯のように思えたのです。
 気がつくと私は大学を休学し、数十本の映画の助監督を経験していました。最初は右も左も判らなかったのですが、現場での経験を重ね、やがて、半ばプロフェッショナルとして仕事ができるようになっている自分を発見し、そのことに満足でした。そして、大学をやめようと思いました。もはや大学で学ぶことなどないように思えたのです。
私は大学の外、現実の社会の中で学ぶことを選ぼうとしていました。


 そんなとき、私はふと大学に戻り、初めて自分の映画を作ってみました。自信はありました。同級生たちに比べ、私には多くの経験がありましたから。
しかし、その経験に基づいて作られた私の作品は惨憺たる出来でした。大学の友人からもまったく評価されませんでした。一方で、同級生たちの作品は、経験も,技術もなく、破れ目のたくさんある映画でしたが、現場という現実の社会の常識にとらわれることのない、自由な発想に溢れていました。授業に出ると、現場では必要とはされなかった、理論や哲学が、単に知識を増やすためにあるのではなく、自分が自分で考えること、つまり人間の自由を追求する営みであることも、おぼろげに理解できました。驚きでした。大学では、私が現場では出会わなかった何かが蠢いていました。
 私は、自分が「経験」という牢屋に閉じ込められていたことを理解しました。
「経験という牢屋」とは何でしょう? 私が仕事の現場の経験によって身につけた能力は、仕事の作法のようなものでしかありません。その作法が有効に機能しているシステムにおいては、能力を発揮しますが、誰も経験したことがない事態に出会った時には、それは何の役にも立たないものです。しかし、クリエイションというのは、まだ誰も経験したことのない跳躍を必要とします。それはある種「賭け」のようなものです。失敗するかもしれない実験です。それは「探究」といってもよいでしょう。その探究が、一体何の役に立つのか分からなくても、大学においてはまだだれも知らない価値を探究する自由が与えられています。そのような飛躍は、経験では得られないのです。それは「知」インテリジェンスによって可能となることが、今は分かります。
 私は、現場で働くことを止めて、大学に戻りました。

僕は、教育業界で10年ちょっと仕事をしているけど、大学時代は教育学を勉強はしていない。正統的なことを学んでいないことは、けっこう引け目になっていて、だからこそ現場で学んだことをアカデミックなところと結びつけることにすごく興味がある。現場で仕込まれたノウハウだけでは偏ることもあるだろうし、もっと幅広く学ぶことって大切なのかな、とこの「経験の牢屋」というところを呼んで思いました。

あと、最後の締めがいいなあ。入学生たちは一緒に社会を作っていく後輩たちですからね。

この里山の自然に囲まれた、小さなキャンパスから、私たちは世界へと思いを巡らし、想像を広げましょう。それが,たとえドン・キホーテのようであっても、私は私たちの小さな創造行為が、必ず世界とつながっていると確信したいと思います。


入学おめでとうございます。共によりよい社会をつくり出す探究を始めましょう。