「国民の力で国家間の憎しみを減らせるか」から考える
Twitterで、いいエントリーを見つけた。まずはTweetから。
これすごい。イスラエルのデザイナーが「私たちはイランの人が好きです」というポスターを作ってFBにアップしたら。。。国が戦争で儲ける人たちに動かされるなら、市民は個人で国を超えた友好関係を作って、戦争を回避するしかないのかも。http://t.co/BwVIJSR6RY
— 市居みか(絵本作家、イラストレーター) (@ichiipk) September 2, 2013
で、リンク先のページ「国民の力で国家間の憎しみを減らせるか」を見てみる。TED talkで、イスラエルのテルアビブ在住のグラフィックデザイナー Ronny Edry さんによる"Israel and Iran: A love story?"がリンクされている。
Israel and Iran: A love story? - YouTube
デザインやエンターテイメントの力を感じさせる試みだなあ。
なんかとても初心に帰してくれるエントリーだった。そうだった、僕、こういうことを信じて仕事を選んだんじゃなかったか、と。大きい目標を忘れちゃダメだ。結局、戦争は国家と国家がするもの。市民はそのための被害者、という認識だけでは状況は変わらない。それをどう変えるか、というのを色々考えたら、結局個人の意識に頼るのがいちばん速いし確実じゃないか、と思うのだ。
以下、2年前に書いてたエントリー「個人の感情が、国境を越える」からコピペ。ときどきこうして初心に帰らなきゃ、大事なことを忙しさとかの中で忘れちゃうな。自戒。
共感を国を越えたものにするためには、個人の感情でなくてはだめですよね。司馬遼太郎も言ってました。
「他民族への友情などという抽象的な感情は存在せず、個人に帰せられてしまうのではないか。」(司馬遼太郎『街道をゆく 耽羅紀行』)
だからこそ、個人の感情が世界を網の目のように張り巡らすようになればいい、と思います。2003年9月に書いた文章が出てきたので、覚えておくために、これも転載:
そうかも知れないな、と妙に納得したりする。例えば、僕がタイを好きなのはなぜかと考えてみる。それは、友達がたくさんいるからだもんね。でも、この前のタイ〜マレーシアのバス旅行の途中で関わった人たちについては、親愛の情はあまりないな(ほとんど話していないから、それだけで決めるのはアンフェアだけど)。
そう考えると、僕がやりたい教育を通じて国際交流を進め、そこを基点に世界を平和にするというプランの基盤は何だろうか?それは個人の親愛の情なんだと思う。誰も、何も知らないよりはいいと思う。個人的な交流を通じて、みんな基礎のところでは同じことを共有しているんだ、ということを知っていけば、何かは違うはずだ。
いろんな国の子どもたちに、違う文化を尊重する気持ち、分かり合えるかもという希望、共有しているものがあるという事実、を知ってもらいたい。
そう思ったから、個人の感情のなかに多民族への友情を作っていくために、そういう場を作るために、教育の仕事についたんだった。
またがんばろう、と思えるわ。こういう軸を忘れちゃダメだ。仕事なら何でもいいんじゃない。やりたい仕事をやりたい。やりたい仕事をできる人になりたい(立場的にもスキル的にも)。
いいスイッチになったエントリーでした。がんばる。