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おおたとしまさ『進学塾という選択』を読んで

 今日は、奥様の夏休み最終日。仕事、早めに切り上げて、好きなもん食べに行こうということに。この時間の電車、混んでるね…

 そんな混んでいる電車の中で、おおたとしまさ『進学塾という選択』を読了。学習塾ってなんだろう?というところで、学習塾を学校以外の社会として位置づけるという考え方も紹介しています。

2013年9月に開催された国際教育学会 第8回公開シンポジウムでは、学校と塾との連携に取りくむ須原英数教室(大阪府八尾市)塾長の須原秀和氏が、「第4のカテゴリーとしての塾教育」という概念を発表した。かつては家庭教育、学校教育、社会教育が重なり合って機能していたが、核家族化や女性の社会進出、保護者の高学歴化などの社会現象により、3つの教育カテゴリーの連携が希薄になったと須原氏は指摘するのである。そして、その3つを結びつける第4の教育カテゴリーとしての役割を、塾が果たすべきであると訴えた。それが塾の社会的責任であるというのだ。
地域社会の希薄化にともない社会教育が事実上消滅し、習い事や塾がその役割を肩代わりするようになったと表現することもできると私は思う。
塾に通ってよかったこととして、塾の友だちの存在を挙げる子どもも多い。塾が学校以外の社会として、子どもの居場所になっているという捉え方もできる。(p.38-39)

 小学校が全国で20000校、中学校が10000校、高校が5000校。塾が50000校。もう、インフラとして使えばいいじゃん。学校とか塾とか、どっちでもいいから出せる知恵を出し合って協力しようよ、とけっこう思ってる。

 実は著者のおおたさんにはお会いしたことがある。学習塾関連のインタビュアーで弊社に来てくれました。だから、学習塾を中からも見ている人なのだなあ、と思って読んでいます。

私自身、これまでの生涯において、塾にはたくさんお世話になった。今でも自分が通った塾のこと、先生方のこと、そしてそこで受けた刺激を、鮮明に覚えている。現在は私の子どもたちが塾で学んでいる。彼らが今、塾で得ているものは学校で得ているものに勝るとも劣らないくらい大きいと、私は感じている。(p.5)

 学習塾は、受験をタネに金儲け、みたいな感じのところもあるかもだけど、むしろ「成績だけじゃないんだ」と言っている所も多いように思う。目的が明確になっている分、方向が明確だし。そういう意味では、建学の理念がしっかりある私立学校に似ているかな、と。
 だからこそ、さまざまな実験もできる。共感してくれる保護者とともにチャレンジングなこともできる。新しいコースを作ったり、課外授業を作ったり、というようなのは、このチャレンジのひとつなのかな、と思ってます。

 学習塾だけ行っていればいいか、と言えばそんなこともない。両方を認める、っていうことが大事なのかな、と思います。実際にユーザーである児童生徒たちの意見をもっと聞くべきかな、と。

実際、東大をはじめとする難関大学の学生に話を聞くと、「大学受験のことだけでいうならば、学校より塾のほうが役に立った」という意見が大半だ。
たしかに、開成・麻布・武蔵・灘・筑駒筑波大学附属駒場)・桜蔭などの名門校では、学校で受験勉強のやり方を事細かに指導しないという点が共通している。宿題も多くはないし、放課後の強制補習も制度としてはほとんどない。その分生徒たちは、自分の学習スタイルに合った塾を上手に利用して受験を乗り切る。
(略)
私は常々、大学進学実績で学校を選ぶことはバカげていると訴えている。いい大学に行きたいのであれば、自分の学習スタイルに合う塾に通えばいいだけの話である。いい大学への合格だけを目指すのであれば、学校など通わず、脇目もふらず、毎日塾に通っていれば最も効率がいいだろう。そんなことをしても何の意味もないことは言うまでもないが。(p.49-50)

 それと、学習塾と学校が並列であるからこそ、教育の多様性が生まれている、とおおたさんは言っている。

筑駒から東大に進学した学生は、「学校は学校で授業は楽しいし、仲間も先生も魅力的だった。広い視野で将来のことを考えられる場所だった。ただし、学校では受験指導は一切してくれないので、塾に通うというスタイルが当たり前だった」と言う。前出の「日経キッズプラス」の座談会では、麻布出身の東大生が「受験勉強に関しては、やっぱり塾のほうが大きかったかなと思います。でも学校には自分より勉強のできる友達もいて、そういう友達と話していると刺激になる。学校も受験勉強で塾に頼っていることはわかっているので、塾では教えないようなことを教えることに力を入れている。それがいいところだと思う」と発言している。
いずれの学生も、学校と塾をうまく使い分けていることがわかる。「受験勉強は塾で。それ以外のもっと根本的な学力や意欲・関心を高めるのは学校で」という感じだ。
この役割分担が、日本の教育を豊かにしていると私は思う。(p.50-51)

 こうして学習塾と学校が使い分けられるようになることでのメリットとして、

学校と塾の役割分担があることによる2つのメリット(p.51-53):
1.塾があることで、学校が受験勉強に縛られないでいられること
2.教育に多様性が生れること

というのも書かれています。

学校とは別に、塾という学びの場があることで、子どもたちは、自分に合った学習スタイルを身につけることができたり、より多角的な刺激を受けることができたりするのだ。
「学校歴×塾歴」で、教育のバリエーションが無数に増える。日本の学校制度が平等で画一的であったからこそ、教育の多様性をもたらすために、塾という「変数」が自然発生したようにも私には思える。(p.56-57)

 うんうん、賛成。学習塾って、本当に欧米の仲間たちに説明するのが難しいのだけど、たしかに教育の多様性を生むものとして重要だなあ、と。学習塾でチャレンジして、うまく行ったものを公教育・学校の方に持って行くとか、うまいこと協力させればいい、という思いを強くしました。
 仕事的に、両方に関わることができているので、「できないことはないかも」と思ってます。がんばろう。ちなみに、学校は文部科学省管轄、学習塾は経済産業省管轄なので、意外と乗り入れとか面倒なのが現状。でも、そんなことを言っている暇なんてもうこの国にはないので、

全国に、小学校は約2万、中学校は約1万、高校は約5000ある。それに対し、塾は約5万も存在するのである。塾を社会資産として活用しない手はないのである。(p.213)

こういう結論じゃないかな、と思います。

進学塾という選択 (日経プレミアシリーズ)

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