日々、想う。んで、記す。

プライドを持たない、節操を持たない、愛着を持たない、弱音を吐かない。

『街場の戦争論』、おもしろかった!

 内田樹『街場の戦争論』を読了。内田先生の本には、いろいろと教えられることが多い。っ今回の「街場の戦争論」は、安倍政権のいろいろについて「このままじゃダメでしょ…」という危機感をもって書かれている。読み応えもあります。内田先生が自分で書いているように、「ああ、内田があんなふうに心配しまくっていたけど、杞憂だったねえ…」となることを願うばかり。

街場の戦争論 (シリーズ 22世紀を生きる)

街場の戦争論 (シリーズ 22世紀を生きる)

 中でも、「強い現実と弱い現実」という考え方がおもしろいな、と感じた(p.33-34)。たしかに、歴史にはいくつも転轍点があると思うのだけど、どちらを選ぼうとも残るものが「強い現実」だ、というものです。こうした考え方、好きだなあ。

どう考えても、すべての現実が等しく堅牢で揺るぎないものであるはずがない。前の日にどこかで大雨が降ったら「そうなってはいない現実」とか、前の週にどこかの株が値下がりしていたら「そうなってはいない現実」というようなものと、雨が降ろうと槍が降ろうと何が起きてもそのとおりになっているはずの現実を同じ重みのものとして扱うことはできません。ですから、僕は「現にそうなってしまったこと」についても、それが「わずかな入力の違いがあれば、現実化していなかったもの」なのか「かなり大きな入力変化があっても今と同じように現実化しているもの」なのかを吟味します。
この吟味の作業は重要だと思います。というのは、「たまたまもののはずみで現実化してしまった弱い現実」は、このあともわずかな入力の変化で簡単に消えてしまったり、かたちを変えてしまうからです。そのような脆弱なものに自分の生活の基盤を置くことはできません。自分の軸足はつねに「強い現実」の上に置いておきたい。僕はそういうふうに考えています。こういう考え方のほうがずっと「リアリスティック」だと僕は思います。

 これは歴史にifはない、というのに真っ向対立して、「ifを考えよう」ということ。ifを考えてウジウジしてもしかたないのだけど、次にどうするべきかを考える時に、自分の今の居場所を考える時に、「強い現実」の方にいるようにするためには、ifを考えるべきだなあ、と。

 …ということで、非常におもしろかった。ぜひ、いろんな心配は杞憂になってほしい。


 内田先生の本は、実は結婚を決めるときにも一冊読んだなあ。

子どもは判ってくれない

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