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平田オリザ『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』、おもしろかった!

平田オリザ『わかりあえないことから コミュニケーション能力とは何か』を読了。非常におもしろかった。

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)


コミュニケーション力って、すごく求められているように就職活動の現場とかでも言われているけれど、そもそもコミュニケーション力を育てるなんて、今の国語教育じゃ無理じゃない?っていうところがスタート地点。

私は初等教育段階では、「国語」を完全に解体し、「表現」という科目と「ことば」という科目に分けることを提唱してきた。
「表現」には、演劇、音楽、図工はもとより、国語の作文やスピーチ、現在は体育に押しやられているダンスなどを含める。10歳くらいまでの子どもにとって、このような科目の分け方はほとんど意味がない。
(略)
「ことば」科では、文法や発音・発声をきちんと教える。現在、日本は先進国の中で、ほとんど唯一、発音・発声をきちんと教えていない国となっている。国の開き方や舌のポジションをしっかりと教えていくことが、話し言葉の教育の基礎となる。
初等教育の課程では、この「ことば」科の中に、英語や、地域の実情に応じて、韓国語や中国語を入れていけばいい。そうすれば、子どもたちは日本語をもう少し相対的に眺めることができるようになるだろう。(p.59-60)

もうひとつ、おもしろかったのは「冗長率」っていう考え方。久米宏さんの冗長率は見事だった、と絶賛。無駄なことをしゃべらずに、削る方向にばかり行っているんじゃないの?っていう指摘は、そうかもなあ、と思ってしまった。

この「冗長率」という考え方を導入すると、これまでの国語教育、コミュニケーション教育の問題点がより明瞭になる。
日本の国語教育は、この冗長率について、低くする方向だけを教えてきたのではなかったか。「きちんと喋れ」「論理的に喋れ」「無駄なことは言うな」…だが、本当に必要な言語運用能力とは、冗長率を低くすることではなく、それを操作する力なのではないか。
だとすれば、国語教育において、本当に今後、「話す・聞く」の分野に力を入れていこうとするならば、少なくともスピーチやディベートばかりを教え冗長率を低くする方向にだけ導いてきたこれまでの教育方針は、大きな転換を迫られるべきだろう。(p.110)

国語教育の中に、演劇的なものを取り込んで、そこに社会的背景とかを乗っけて…っていうのはおもしろそうだ。

「旅行ですか?」というセリフを演劇でする:

  • 話しかける人がアイルランド人なら、これはまったく普通の行為。
  • 日本人は一割しか話しかけない。だから、もし「旅行ですか?」という台詞を言うならば、ちょっと積極的な人、あるいは少し図々しいくらいの人といった心構えで役作りをしないと不自然になってしまう。
  • イギリス人の上流階級の男性という設定ならば、人から紹介されない限り他人と話し手はいけないというマナーがあるので、通常は話しかけない。もし、この階級の人が自分から「旅行ですか?」と言ったとすれば、考えられるのは、何らかの事情で正当な教育を受けていない、帰属の階級を捨てて放浪のたびに出ていて、下層階級の者がやるように話しかけた、マナーを破ってまで話しかけるほど、相手に関心をいだいている、など。

これ、やってみたいな。フィンランド・メソッドの中でも、こうした内容は取り入れられているんだって。

フィンランド・メソッドでの国語教科書の最後は、演劇的な手法を使ったまとめになっていることが多い。
「今日読んだ物語の先を考えて人形劇にしてみましょう」
「今日読んだ小説の、一番面白かったところを劇にしてみましょう」
「今日のディスカッションを参考にして、ラジオドラマを作ってみましょう」

「ヨーロッパの国語教育の主流は、インプット=感じ方は、人それぞれでいいというものだ。文化や宗教が違えば、感じ方は様々になる。(略)
しかし、多文化共生社会では、そういったバラバラな個性を持った人間が、全員で社会を構成していかなければならない。だからアウトプットは、一定時間内に何らかのものを出しなさいというのが、フィンランド・メソッドの根底にある思想だ。
これは現行の日本の国語教育と正反対の構図になっていることがわかるだろう。私たちは、「この作者の言いたいことは何ですか?50字以内で答えなさい」といった形でインプットを狭く強制され、一方でアウトプットは個人の自由だということで作文やスピーチでお茶を濁してきた。しかし、現実社会は、どちらに近いだろうか。アウトプットがバラバラでいいなどという会社があったら、即刻潰れてしまうだろう。しかし、どの企業も多様な意見や提案を必要としている。問題は、その多様な意見を、どのようにまとめていくかだ。(p.213-215)

「みんな違って、みんないい」ではなく、「みんな違って、たいへんだ」ということが伝えたいことだ、とのこと。なるほどなあ。


どの先生でも、この平田さんのメソッドを使えるのだろうか、という点は懸念としてはあるけれど、こうしたメソッドが広がっていけばいいなあ、と思う。【→メモ:わかりあえないことから