知的刺激をくれるメルマガ、書店
α-Synodos
α-Synodos Vol.124を読んでいて、いいなあ、と思ったところ。
まずは、「湯浅誠×大西連「社会的な綱引きを超えて」」の中で、湯浅誠さんが言っているマクロとミクロの取り組みについての部分。
ミクロの取り組みが重要なことは、今更確認するまでもないことだと思います。私は、活動家というのは一人三役ですと言っています。それは個別の相談対応や個別支援をする第一の役割と、社会的に問題を届けていく第二の役割、政策的に練り上げていく第三の役割と。その三つの役があって、でも人間の体は一つしかないから、全てを一○できる人はいません。
人によっては、その割合が一対ニ対七になったり、八対一対一になったり。それは、仕方がないことです。大切なことは、その役割のどれもが必要だということをふまえた上で、それぞれの役割を認めて、それで相乗効果を生みだすように発想し取りくむことだと思います。
でも、悲しいことに、ミクロのことをやっている人は、マクロな政策的なことをやっている人に「現場をほったらかして」と思ってしまいがちだし、政策のことをやっている人は、ミクロのことをやっている人に「そんなにシコシコやったって変わらないだろ」と言ってしまいがちです。それで、お互いの力をそぎ落としてしまうのは相互不信に陥る危険なことだと思います。
それと、「八木絵香「第三者による検証」という言葉をとらえ直す」の中での、「ニ.五人称の視点」という言葉もいいなあ、と思った。
作家の柳田邦男氏は、フランスの哲学者ジャンケレヴィッチの「死の人称性」という概念をもとに、被害者視点にたった上で事故調査を行うことの重要性を「ニ.五人称の視点」という言葉で表現している。柳田氏は、事故調査を行う上で「もし自分が事故にあっていたら」と考えるのは一人称の視点、「もし自分の家族や大切な人が事故にあっていたら」と考えるのは二人称の視点、専門的な知識だけに基づいて判断するのは三人称の視点。そして一人称、二人称の視点をいれつつ、専門家として冷静に判断するのは、「ニ.五人称の視点」であるとしている。
事故調査だけでなく、失敗の分析とか、もしかしたらPDCAのCheckの部分でも、こういう視点は大事だろうなあ、と。
α-Synodos、最新号をこまめに読む、というのはできていないのだけど、遅れて読んでもじゅうぶん楽しめるし刺激を与えてくれる本です。