日々、想う。んで、記す。

プライドを持たない、節操を持たない、愛着を持たない、弱音を吐かない。

おばあちゃんの話

橿原のおばあちゃんが亡くなった、との知らせを家に帰ってすぐに受け取る。
うまく感情を整理できない。「死」ということは今まで自分に近かったことはなかった。でも子どもの頃、「死んだらどうなっちゃうのか?」と考え始めてしまって寝れなくなったことはあった。死んだらどうなるのか?痛みとかは?どこへ行っちゃうのかな?とか。火葬場で焼かれる自分を想像して、それを取り囲んでいる自分が見えたりとかもした。で、焼かれようとしている自分を見て「ああ、熱そうだなあ、あ、でも自分は死んでるから感覚もないのか」と夢の中で冷静に思っていたりもした。
おばあちゃんには、初孫だったこともあってかわいがってもらった。橿原はおじいちゃんが職人さんでとっても厳しくって、子どもの頃は少し恐かった(もちろん、厳しい中の優しさだっていっぱいもらってるよ)。おばあちゃんはその分を補うほどにやさしかった。筋が通って厳しかった(ように見えた)おじいちゃんと優しいおばあちゃんは今考えるといいバランスだったかも。大好きだったお饅頭(さつま焼っていうんだけどさ)をいつもたくさん用意してくれていて。お寿司もたくさん食べさせてもらったり。
亡くなるってどういうことだ。自分の周囲は変わらない。自分の感情をどうコントロールしていいかわからない。「孝行を・・・」っていう諺(?)もあるけれど、本当にそうだなあと思うよ。明日も今日のままでいられるとは限らない自分の会いたい人には会いに行こう「どうしているかな?」と思う人にはTELをしよう、ってビリーが言ってた。ケンカしている人がいたら仲直りをしよう、とっつきにくい人をわかる努力をしよう、すばらしい出会いがたくさんあるはずだし、これまでの関係をほんのちょっと大事にする事だってできるはずだ
こんなこと、こんな日に、わざわざ日記にして、しかもインターネットに載せちゃうのか?って思う人もいるでしょう?<自分だってそう思うもん。それでも、僕はこの先も生きていかなきゃならないし、見守ってもらっていると思うから、しっかりした自分を見せなきゃいけないんだ。今も仕事の合間にこれを書いている。何が起こったって、仕事はそのまま続いていたり、もろもろのことはmust go on.なんだもん。それは現実。その中で、今、感じていることを残しておくことは自分にとって必要だと思ったんだ。だから、書いておきたいんだ。
残ることは、引き継いだ気持ち、忘れずにいること。何ができるかはわからないけど、思い出し、それを留めておくことしかできないんじゃないかと思うんだ。
今、この瞬間をもっと大切に、もっと周囲の人に愛を投げかけよう。