日々、想う。んで、記す。

プライドを持たない、節操を持たない、愛着を持たない、弱音を吐かない。

『坂の上の雲 (4)』、まだ旅順は落ちない…

 司馬遼太郎坂の上の雲 (4)』を読了。まだ旅順は落ちません。しかし、旅順戦の描写は悲惨。こんな戦場に自分が行くのも嫌なら、子どもを行かせるのも嫌。やりきれないよ…

坂の上の雲〈4〉 (文春文庫)

坂の上の雲〈4〉 (文春文庫)

 旅順を攻略する理由となっている、旅順艦隊の封鎖戦をしている海軍の方では、真之の描写がかっこいい。やるだけやって、あとは運、というのはこの「坂の上の雲」ではくり返し書かれていること。

 そばで若い士官たちが、半ば冗談で、「こんどの作戦はおれならこうするが」などとホラを吹きあっていると、真之は急に講談本をすてて跳ね起き、
 「いまの話、もういっぺん言ってみろ。どうするんだって」
 と、コンパスと定規をとりよせ、やがて愚にもつかぬホラ話を大まじめにききおわると、すぐさまその場でそれを理論の筋を通して大作戦を机上で現出してみせたということもあった。
 が、この場合はちがう。靴のまま、ベッドにひっくりかえって考えているうち、疲労のためにすこしうとうとした。そのときかれの網膜にしろじろとした空と海がひらけてきて、夜があけてほどもない海景があらわれた。山波がみえ、その光景はあきらかに津軽海峡にちかい日本の東海岸の景色で、しかもその黒い海に三隻の軍艦が北上しているのをみたのである。ウラジオ艦隊のロシア、リューリック、グロムボイであった。かれらは津軽海峡をめざしていた。
 (やつらは、津軽海峡をへてウラジオストックに帰るのだ)
 と、真之はこの自分の精神にあらわれた神秘的幻覚を信じようとした。作戦というのは理智のかぎりをつくして思考しぬき、ついにぎりぎりまで煮つめた最後の段階では天賦のかんにたよるしかないということを真之は知っていたし、それを絶対境地であると思い、自分がときに感ずるそういう絶対境地をかれは信じるたちであった。かれが晩年、心霊的世界に凝ってしまったのも、そういうことによるらしい。
 が、真之はこの神秘的幻覚についてはたれにもいわなかった。言えば、東郷以下の艦隊幹部は真之のことばを信じなくなるだろう。
 かれはこのときすぐ参謀長室へゆき、津軽海峡説を理論化して説明した。
 連合艦隊が、大本営命令を無視して上村艦隊に対し、津軽海峡ゆきの命令電信を発したのはこのときである。
 が、すでに上村艦隊は、大本営命令による行動に入ってしまっていた。もしこのとき真之の幻覚どおりに上村艦隊が行動しておれば、ウラジオ艦隊の始末はもっと早い時期についていたはずであった。(p.85-86)

 陸軍の準備不足ぶりもすごい。まあ、司馬さんは陸軍嫌いだしなあ。でもいくらなんでも、これが事実だとしたらひどいなあ。

 じつをいえば、この遼陽に展開しつつあるロシア軍に対し、日本軍は機敏な攻勢に出るべきであった。が、出ることができなかった。
 砲弾が足りなかったのである。
 海軍は、あまるぐらいの砲弾を準備してこの戦争に入った。
 が、陸軍はそうではなかった。
 「そんなには要るまい」
 と、戦いの準備期間中からたかをくくっていた。かれらは近代戦における物量の消耗ということについての想像力がまったく欠けていた。
 この想像力の欠如は、この時代だけでなく、かれらが太平洋戦争の終了によって消滅するまでのあいだ、日本陸軍の体質的欠陥というべきものであった。
 日本陸軍の伝統的迷信は、戦いは作戦と将士の勇敢さによって勝つということであった。このため参謀将校たちは開戦前から作戦計画に熱中した。詰め将棋を考えるようにして熱中し、遼陽作戦などは明治三十五年のころから参謀本部での「詰め将棋」になっていた。かれらは戦争と将棋とは似たようなものだと考える弊風があり、これは日本陸軍のつづくかぎりの遺伝になった。かれらはその「詰め将棋」に血をかよわせて生きた戦争にするのは、実戦部隊の決死の勇戦あるのみという単純な図式をもっていた。「詰め将棋」が予定どおりにうまく詰まないときは、第一線の実施部隊が臆病であり死をおそれるからだとして叱咤した。とめどもなく流血を強いた。
 それが、東京なり後方なりにいる陸軍の作戦首脳の共通してのあたまであった。「詰め将棋」を肉づけしてそれを現実の戦争に仕立てあげるものは血よりも物量であるということがわかりにくかった。たとえば日本陸軍は遼陽作戦をはじめるにあたって準備したのは砲弾ではなく、一万個の骨箱(ロシア側資料)であった。
 砲弾については、戦争準備中、
 「どれほどの砲弾の量を予定すべきか」
ということを、参謀本部で考えた。もし日清戦争の十倍が必要なら、それだけの量を外国に注文したり、大阪砲兵工廠の生産設備を拡充してそれだけの用意をせねばならない。
 が、日本陸軍は、
 「砲一門につき五十発(一ヶ月単位)でいいだろう」
 という、驚嘆すべき計画をたてた。一日で消費すべき弾量だった。
 このおよそ近代戦についての想像力に欠けた計画をたてたのは、陸軍省の砲兵課長だった。日本人の通弊である専門家畏敬主義もしくは官僚制度のたてまえから、この案に対し、上司は信頼した。次官もその案に習慣的に判を押し、大臣も同様だった。それが正式の陸軍省案になり、それを大本営が鵜のみにした。その結果、ぼう大な血の量がながれたが、官僚制度のふしぎさで、戦後たれひとりそれによる責任をとった者はない。(p.101-102)

 専門家がいうことだから、と疑わない、というのは致命的なことになりかねないよなあ。いつまでも「詰め将棋」を考えていても仕方なくて、それを実現させるためにどうするか、というのはひたすらに現実的な計算になるのだよね。兵站の大事さ。事務の大事さ。なんか、染みます、ほんと。がんばろう。

 歴史に残るのは、九死に一生的な、天才的な戦略だったり戦術だったりするけれども、それを基準にその後のことを考えてはいけない、ということ。織田信長が最初こそ桶狭間という奇襲だったけれども、その後はそんなことはしていないというのも教訓になりそう。

 敵よりも大いなる兵力を結集して敵を圧倒撃滅するというのは、古今東西を通じ常勝将軍といわれる者が確立し実行してきた鉄則であった。日本の織田信長も、わかいころの桶狭間の奇襲の場合は例外とし、その後はすべて右の方法である。信長の凄味はそういうことであろう。かれはその生涯における最初のスタートを「寡をもって衆を制する」式の奇襲戦法で切ったくせに、その後一度も自分のその成功を自己模倣しなかったことである。桶狭間奇襲は、百に一つの成功例であるということを、たれよりも実施者の信長自身が知っていたところに、信長という男の偉大さがあった。
 日本軍は、日露戦争の段階では、せっぱつまって立ちあがった桶狭間的状況の戦いであり、児玉の苦心もそこにあり、つねに寡をもって衆をやぶることに腐心した。
 が、その後の日本陸軍の歴代首脳がいかに無能であったかということは、この日露戦争という全体が「桶狭間」的宿命にあった戦いで得たことを先例としてしまったことである。陸軍の崩壊まで日本陸軍は桶狭間式で終始した。(p.246)

 歴史から学べることは、たくさんあるよねえ。