『船に乗れ! (3) 合奏協奏曲』
藤谷治『船に乗れ! (3) 合奏協奏曲』を読了。いま、このタイミングで読んでよかったな、と思う。才能とその限界とか。踏み越えたことの修復とか。
主人公が祖父と話すところが好きです。芸術としての音楽だけど、生れた時からそうだったわけじゃない、ってとことか。這いつくばって、がんばることにだって意味はある。やってくうちに変わっていくことだって、ある。
「バッハだってヘンデルだってハイドンだって、昔の音楽家はみんな、貴族の子飼いだ」おじいさまはいった。「この『ブランデンブルク』だって、カンタータだって受難曲だって、みんな頼まれ仕事だ。出来高払いの商売なんだ、作曲家なんてものは」
「地位が低かったんでしょ」おばあさまがいった。「召使いや料理人と同じ扱いだったのよね」
「おとうちゃんは好きだね」おじいさまはいった。「食うために腕を上げていった芸術が、おとうちゃんは一番好きだ。モーツァルトはどうして、シンフォニーでも弦楽四重奏曲でも、ピアノ・コンチェルトでもオペラでも、山のように名曲を残していると思う。いい曲を仕上げなきゃ、次の注文が来なかったからさ。精一杯いいものを書かなきゃならなかったんだ、生活のために。
ハイドンは事実上独学で作曲を始めた。気のいい男だったからみんなに好かれて、貴族にかかえられた。オーケストラを運営して、人事もスケジュールもみんな管理して、毎日のように新曲をあつらえなきゃならなかったんだ。ハイドンは激務に耐えて、とうとう寝ながら作曲できるようになったって、喜んでいたそうだよ。それでいて、ちっとばかし裕福になれたのは、六十過ぎてからだ。ロンドンの興行が当たったから…。
芸術は芸術家が気ままに作ったもんなんかじゃないんだ。家賃のために、お上の機嫌をそこねないために、次の仕事に困らないように、せっぱつまって作られたんだ。しかもそんな苦労は、ほら、この音楽からはこれっぽっちも聴こえてきやしねえ。女にふられてくやしいとか、俺のことを認めろとか、てめえの気分を宣伝するために芸術を利用してねえんだ。ベートーヴェンがいけねえとはいわねえが、おとうちゃんはこっちの方がよっぽど好きだね」
僕はそれを、いつものおじいさまの講釈と同じように、ただ頷いて聞いていた。でもそれは、そんなものではなかった。それは、音楽を失い、どこへ行くかあてもなく進まなければならなかった僕への、おじいさまのはなむけの言葉だったのだ。そのことに気がつくのに、僕は二十年以上もかかってしまった。(p.117-118)
みんなで何かをやる楽しさのところとかは、「ああ、音楽っていいなあ」と思わされる。チームスポーツとはまた違う、「みんなでつくり上げる良さ」みたいなのがある感じ。うん、とても、良かった。
- 作者: 藤谷治
- 出版社/メーカー: ポプラ社
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