日々、想う。んで、記す。

プライドを持たない、節操を持たない、愛着を持たない、弱音を吐かない。

社会科って、そういうことだよね。

清水義範『どうころんでも社会科』を読了。このシリーズ好き。長男S氏が床に置きっぱなしにしてあったのを見つけて、おりゃ!と破いてしまったが(涙)ううう、本が破れるとすごい悲しい。
社会科の教科内容と国の方針がシンクロしていることに気づいていたいものだな、っていう清水先生の言い分は、とってもよくわかる。ある程度の期間で、例えば10年ごとくらいで、社会科の教科書の同じ部分を読んでいくとどんな風に変わっていくのか見られておもしろいだろうか、と思った。

そして私は60年代に、中学生になっていく。その中学の地理で、ここ、いちばん重要だからテストに出るぞ、と言われて頭にたたきこんだ言葉が、コンビナート、だった
三重県の四日市市だとか、千葉県の海岸地方(京葉工業地帯)などにあるのが、石油コンビナートである。それは、石油化学工業を大いにやっている、日本の希望の星なのである、と習った。
ものの見事に、国の経済方針が、社会科の教科内容とシンクロしているのである。
私は、教育批判や、教科書批判をしようとしているのではない。文部省が教科書検定をして、そういった偏った教科書でないと合格にしないのだ、というのはもちろん事実ではあるのだけれど、とりあえずここでは、そのことに文句を言いたいのではない。
むしろ、とうぜんそういうことになるだろうなあ、と思うほどだ。いよいよ高度経済成長の時代に突入しようとしている60年代に、石油コンビナートのことを希望の星だと教えるのは当然のことである。まだ四日市ぜんそくのことはそう大きな話題になっていなかったのだし。
ただ、気がついてはいたいものだな、というのが私の言いたいことである。私たちは、時代性の中で、その時代らしい教育を受けているってことに。
例えば干拓事業。私は小学校では、干拓というのは狭い日本の国土が増え、農地が増えるとてもすばらしいことだと習った。そして八郎潟の白地図に色鉛筆で緑色をぬったぞ。(p.75-76)

どうころんでも社会科

どうころんでも社会科