日々、想う。んで、記す。

プライドを持たない、節操を持たない、愛着を持たない、弱音を吐かない。

「大きな政府」と「強い政府」は違う

佐伯啓思『経済学の犯罪 稀少性の経済から過剰性の経済へ』を読了。佐伯啓思さんは、学生の頃に本当によく読んだ人。正統派な経済学者(というのがどういうのかわかんないけど…)ではなく、そこに思想が入っているなあ、と思っていた人でした。経済学に疑問を呈しつつ、前提に何を考えるべきか/考えないべきか、みたいなのが読めておもしろかった。

経済学の犯罪 稀少性の経済から過剰性の経済へ (講談社現代新書)

経済学の犯罪 稀少性の経済から過剰性の経済へ (講談社現代新書)


後半で紹介されていた、エマニュエル・トッドは、まったく知らない人でしたが、「民主主義」と「グローバル経済」についての考察がおもしろかった。

エマニュエル・トッドは、「民主主義」と「グローバル経済」は両立しえないと主張しているが、これはまったく正しい。さらに踏み込んで彼は、大衆の不満は、民主政治のなかからやがて独裁を生み出し、民主主義が停止されるだろう、と述べているが、これはかなりの蓋然性を持っている(『デモクラシー以後』)
もちろんそのことをトッドは歓迎しているのではなく、警鐘を鳴らしているのだ。だから、民主政治を守るために、グローバル経済のレベルを落とすべきことを主張するのである。
私は、このトッドの見解にほぼ全面的に賛同する。グローバル経済のレベルを落とすということは、各国の社会構造、文化、経済システムの多様性を認め、それぞれの国がその国の国内事情に配慮した政策運営を採用できる余地を増やすことである。自由主義者やグローバリストの嫌う言葉をあえて使えば、戦略的に「内向き」になることである。
「内向き」になることは、「鎖国」でもなければ「閉国」でもない。そもそも「外に開く」か「内に閉ざすか」などという二者択一はまったく無意味なのだ。いまだにそのような議論をする人が多いのは困ったものであるが、「内向き」とは、国内の生産基盤を安定させ、雇用を確保し、内需を拡大し、資源エネルギー・食料の自給率を引き上げ、国際的な投機的金融に翻弄されないような金融構造を作ることである。端的にいえば、「ネーション・エコノミー」を強化することにつきるのであって、スミスやケインズの考えの伝統に立ち戻ることなのである。私には、これこそが本来の意味での「自由主義」だと思われる。
今日の不安定な世界経済を見た場合、将来の方向性としては三つの選択肢があるだろう。第一は、メガコンペティションを動力とするグローバル化をいっそうおし進めること。第二は、世界的な経済管理機構を創出すること。第三は、グローバル化や自由競争のレベルを落とし、各国におけるそれぞれの国内経済の安定化政策を可能ならしめること。
今日の世界経済の不安定性をもたらしているものが過度の競争主義に立つグローバル資本主義だとすれば、第一をとることには意味がなく、第二は今日の政治状況のもとでは難しいとすれば、方向は第三しかない。「ネーション・エコノミー」の強化とその多様性の共存しかないはずであろう。これはほとんど自明のことのように私には思われる。(p.311-312)

ここ数十年でうまく行っている国(アメリカ、中国、ロシア、ブラジル、インドなど)は、その国の強みをきちんと理解していて、その強みを活かすように強い国家(ネーション)が方向性を持って統治している国だ、というのが本当にそうだなあ、と思う。
その話の流れで、

「強い政府」と「大きな政府」とはまったく違っている。「大きな政府」を「小さな政府」に変更するためにも「強い政府」が必要とされるのである。(p.181-182)

という話も出てきた。今の日本は、強い政府だろうか?日本の今の強みは何?その強みを活かして、どんな国にしようと思っているのか、そうしたグランドデザインが本当に足りていないんじゃないかなあ、と思った。【→メモ:経済学の犯罪 稀少性の経済から過剰性の経済へ