日々、想う。んで、記す。

プライドを持たない、節操を持たない、愛着を持たない、弱音を吐かない。

笠井潔・白井聡『日本劣化論』を読んだ

 8月だから、というわけではないのだけれど、なんだか敗戦論や日本社会についての本などを立て続けに読んでいる。笠井潔白井聡『日本劣化論』を読了。

日本劣化論 (ちくま新書)

日本劣化論 (ちくま新書)

 ここがいいな、と思ったところをメモ。差異のところ。(p.138)

白井 そこで思い出すのが、スラヴォイ・ジジェクが吐いた旧ユーゴでの民族対立についての名言です。いわく、「耐え難いのは差異ではない、差異がないことだ」。どういうことかと言うと、例えば、セルビア人クロアチア人は、見掛けも言語も大して変わらない。つまり、差異がない。それがなぜ耐え難いことになるかと言うと、差異がないということは、単によく似ているということではなくて、西欧という「大文字の他者」からすればバルカン人は皆等しなみに野蛮視されている、ということを意味するからだというのです。このようにヨーロッパ全体での差別的ヒエラルキーが前提としてある。だから、一番西側に近いスロベニア人は東隣のクロアチア人とのちっぽけな差異に執着し、クロアチア人セルビア人とのちっぽけな差異に執着する。それは、「大文字の他者」の視線に自己投影し、その視線で自らの集団を眺めたことによる結果です。取るに足らない差異の強調は、「自分たちまではヨーロッパ人なのだ、隣はそうじゃないけれど」、と暗に主張することなのです。このような、差異の不在ゆえの捏造が、憎悪を亢進させ、暴力の撃発を生んだ、とジジェクは論じています。

日本人もまさに、欧米人などからみれば、中国人・韓国人と見分けがつかない。差異があることではなく差異がないことが耐え難いという図式がまさに当てはまります。だから、彼らのあの異様な強度を持っている剥奪感とは、アジアの他者を見下す自分の視線が本当は自らのものでなく、借り物にすぎない、しかもそのことを自分でも薄々気づいている、ということからきているのではないでしょうか。

 大学の卒論で、「戦争のときの意味付けの変化」というのをテーマにしていて、そのときにユーゴスラビアの民族対立について調べた。差異がないからこそ、差異を作る、みたいなことをしなければならなかったり。サム・キーン『敵の顔 憎悪と戦争の心理学』もものすごくおもしろかったなあ、というのを今も覚えてる。伝単とかがたくさん収録されているのです。わかりやすくいえば、「鬼畜米英」みたいなのとか。「神の敵」とか相手を言ったり。まあ、十字軍の頃からずっとなわけだけど。そういうのをまとめた本で、おもしろかったなあ。

敵の顔―憎悪と戦争の心理学 (パルマケイア叢書)

敵の顔―憎悪と戦争の心理学 (パルマケイア叢書)

 そう考えると、何ていうか、抗えない何かがあるのかなあ、と思いつつ。それを抱えて前に進んでいったり、一緒に悩んだりする以外には、やれることはないんだろうなあ、と思う。