日々、想う。んで、記す。

プライドを持たない、節操を持たない、愛着を持たない、弱音を吐かない。

教育において大切なこと

内田樹『狼少年のパラドクス ウチダ式教育再生論』を読了。ひさしぶりに内田先生の本を。神戸女学院大学で、大学の学事とかもバリバリやっているんだなぁ。今まで読んだ内田先生の本とは少し違ってていいかも。
いろんなポイントがとてもよかったのですが、思いついたところから。兵庫県立柏原(かいばら)高校「進路探求WEEK-ほんとうの『知』に出会う』に招かれた話とかも出ているのだけど、こういうのいいなぁ。こういうのをしてくれる高校にいれば幸せよね。学校が、何十人もの大学教授や外部講師を招待して、生徒たちにプロの言葉をがんがんぶつけていく授業(らしい)。
それから、多くの先生方に響いて欲しいな、と思ったのは以下の言葉。

教える側が教わる側の知的ポテンシャルに対する期待と敬意を失ったら、教育はもう立ち行かない。(p.141)

そう、教える側が期待と敬意を失ってしまっていたら、絶対それは教わる側に伝わってしまうと思う。そして、関係が立ち行かなくなってしまう。
あともうひとつ。僕は実は「ゆとり教育」ってそんなに悪いものじゃなかったと思っているのだけど、内田先生もそう思っている様子。内田先生の言い分は、

学力低下の主たる原因が学習指導要領やゆとり教育にはないことについては私も同感である。生徒たちは同学齢集団で競争する。だから、同学齢集団全体の学力が下がっても偏差値とは関係がない本人からしてみれば同学齢集団の学力がどんどん下がれば下がるほど、少ない勉強でいい学校に行けるわけだから、その点では全員共犯なのである。(p.254)

そのうえで、教える側としても「知的威信を脅かされるような、そんな生徒たちはここ10年でいなくなった」と言う。確かに、生徒たちが先生をぐらつかせるような質問やアイデアをいつも持っていて、それを若さで愚直にぐいぐいと突きつけてくる、そんなドキドキの授業があれば、もっと学びの場って楽しいんじゃないかなぁ、と思った。[→blog@Yui 狼少年のパラドクス]
逆にもっともっと能力的にはハードル上げて、でも今よりずっと楽しそうなプロジェクトをゆとり教育とか総合学習の時間とかで与えて、「子どもたちはできるはずだ、学べるはずだ」と信じて、いろんなことを突きつけていきたい、と思う。期待と敬意を持って、まだ企画段階でしかないヨチヨチ歩きの“横浜駅周辺の公共デザイン”のプロジェクト進めたいと思います>関係各位、よろしぅ。

狼少年のパラドクス―ウチダ式教育再生論

狼少年のパラドクス―ウチダ式教育再生論