日々、想う。んで、記す。

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最強の運命論に大賛成です

佐々木敦『未知との遭遇 無限のセカイと有限のワタシ』を読了。佐々木さんは、この本の中で「最強の運命論」というのを提示しています。これ、僕、大賛成です。そう、そう考えるしかないじゃないか、と思いたいから。最強の運命論とは、ポイントは以下のようなものです(p.275-279)。

  • 「運命である偶然」と「運命でない偶然」があるというのではなく、また「運命である必然」と「運命でない必然」があるというのでもない。
  • 「偶然」として現れた出来事のすべてを「必然」として受け入れること。
  • 「結局決まってるんだから」と言って、世の中を斜に見て、するつもりだったことさえしない、という人の行為すらも、そのすべてが決定されているということになる。自分が思ったこと考えたこと、それにしたがっていろんな行為や選択をしたりしなかったりすることも、なにもかもすべてが「決まってるんだ」ということ。
  • 結果が自分にとって好ましかった場合も、そうではなかった場合も、それは要するに「運命」だった。しかしそれが「決まっていた」ことは後になってからしかわからない。つまり「偶然」によって「運命」は、あなたの「意志」から遮断されている。だとしたら、「する」べきだ、という考え方。
  • 「最強の運命論」が持っている意味とは、このように、決まっているからこそ自ら選べる、という、逆説的な、だが能動的な「意志」という不思議なチカラを導き出してくること。すべてが「決まっている」、そしてそれは「しょーがない!」、それゆえにこそ「意志」が存在し得る。それならば、まず自分自身の気持ちに従ってみて、しかしその結果は「決まっていた」と考えて受け入れる。

で、こうすることで後悔しなくなるかというと、そんなことはない。斜に構えて何もしない、というのでもなく、そうなんだというのを受け入れて次に進んでいく、というのが大事なのだと思うのです。

どれだけ未来のあり得る複数の可能性に備えておいたとしても、想定していた複数の可能性以外の可能性が、現実として出来することがある。
そこで「最強の運命論」の出番です。想定外の出来事が起きた時には、それは「決まっていたんだ」と――もちろん容易には受け入れ難いことだったりするのかもしれませんが――考えることによってともかくも「未来」へと向かっていく。僕は本気でそう思っています。自分にとって望ましくないこと、起きてほしくなかったことが起きた時には、普通は落ち込んだり、世を憂いたり、そんなことが起こってしまった現実を否認したくなるものですが、「最強の運命論」を導入すれば、それも決まっていたことなのだから、いわば「なるほど、そう来たか!」と思えるわけです。
そしてそれから、ではどうしようかと考える。「後悔」は不可避だが無意味だと考える。「タイムマシンがない」ことを認めるとは、そういうことです。「起きてほしくなかったことも起きることがある」のが「確率論(偶然性)」であり、「それは決まっていた」のだとするのが「決定論(運命論)」だとすると、そこで「起きて欲しくなかったのに」などと考えていても何の意味もない。ならば「そう来たか!」「じゃあどうする?」と考えてゆくしかないと思うのです。(p.288-289)

「でも、やるんだよ」って感じですよ。状況はたしかにあんまり良くないかもしれない。この世界はクソゲーかもしれない。でも、前に進んでいくしかないじゃない?【→メモ:未知との遭遇

未知との遭遇: 無限のセカイと有限のワタシ

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