Twitterで刺激を受けたので、自分メモ。
備忘録として。なんか、たくさんの先達がいます。勉強になる。刺激になる。
教師の仕事
結局、どんな立派な教科書・も授業のたたき台に過ぎず、授業を進行するのは教師である。教科書は聖書、教師は牧師のようなスタンスで臨みたい。かの福沢諭吉も「教科書のいかに完全のものを用うるも、書籍の力によりて生徒を導かんとするが如きは、とうてい人力に及ばざるところなれば」と述べている。
— 笠見未央(猫ギター) (@nekoguitar) 2014, 8月 20
そのとおりだと思います。教科書、のところをICTに置き換えると、今でも十分、「そのとおりだなあ」と思える言葉では?と思います。
教育学は学問になれていない?
8月に著書を拝読しました、苫野一徳先生のTweetから。これもすごく納得がいきます。僕は教育学部を出ていないので、詳しくは知らないけれど、
よく言われるように、教育学には固有の方法というものが当然なく、「教育」という対象が、さまざまな学問的方法で分析されている。だから、関心や方法が違うだけで、議論が全然噛み合わない。不毛すぎて涙も出ない、という齟齬がよくある。
— 苫野一徳 (@ittokutomano) 2014, 8月 19
「教育学は学問になれてない、科学になれてない」とは、もう何十年も言われてきたこと。そのたびに、そもそも学問とは、科学とは、という議論もかわされてきた。そろそろ、ある程度の決着をつけておきたいと思っている。
— 苫野一徳 (@ittokutomano) 2014, 8月 19
本のタイトルは、『学問としての教育学』かな(笑)
— 苫野一徳 (@ittokutomano) 2014, 8月 19
子どもを育てること
斉藤淳「教育は人を育てるものと考えるのって傲慢だと思うんですよね。子どもは勝手に伸びていくものなんですよ。時間を忘れて熱中できるものがある子どもはたくさんいる。それを潰さないほうが大切なんです。」 http://t.co/IXB27Exzg0
— Yuki Asaba(浅羽祐樹) (@YukiAsaba) 2014, 8月 21
これもそのとおりだと思うのです。教室では、「時間を忘れて熱中しちゃうような、没頭できるような場を作ってあげたい」といつも思ってます。没頭しちゃえば、「もうやめなよ」っていうくらいまで本を読んだり、考えたり、何かを作ったり、そんなことができると信じてます。