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マシュー・サイド『非才! あなたの子どもを勝者にする成功の科学』がおもしろかった

 マシュー・サイド『非才! あなたの子どもを勝者にする成功の科学』を読了。別に子どもを勝者にしたいとは思ってないけど、めちゃくちゃおもしろかった。
 「才能って何だろう?」っていうのがテーマで、それについてのさまざまなデータとか実験とかがおもしろい。そして何より、親として、先生として、いろいろと気づきがある本でした。

非才!―あなたの子どもを勝者にする成功の科学

非才!―あなたの子どもを勝者にする成功の科学

何が「傑出した技能」を生むのか?

 例えば、1991年にフロリダ州立大学の心理学者アンダース・エリクソンらが行った「傑出した技能の原因を調べる」調査(p.16-17)では、被験者(ドイツの高名な西ベルリン音楽アカデミーのバイオリニストたち)を3つのグループに分けての調査を行ったことを紹介してる。3つのグループは…

  1. 傑出した学生たちのグループ
  2. きわめて優秀だがトップになれるほどではない学生のグループ
  3. いちばん能力の低い、音楽の先生になりたくて勉強している生徒のグループ。

 それぞれのグループに属している学生たちの経歴などは驚くほど似通っていた(つまり、ここには決定的な傑出した技能の原因はない)。違いがあまりに大きかったのは、「彼らがまじめに練習してきた累計時間」だった。20歳になるまでに、最高のバイオリニストたちは平均一万時間の練習を積んでいた。「これは良いバイオリニストたちより2000時間も多く、音楽教師になりたいバイオリニストたちより6000時間も多い」
 才能なんかではなく、そもそも「それに費やしている圧倒的な時間」こそが大事なんだ、ということ。これは子どもに対して「お前に才能はない!」とか言う前に、知っておかなきゃいけない事実でしょう。

 だが、それだけではない。エリクソンはまた、このパターンに例外はないことを発見した。辛抱強い練習なしにエリート集団に入れた生徒は一人もいなかったし、死ぬほど練習してトップ集団に入れなかった生徒もまったくなし。最高の生徒とそのほかの生徒を分かつ要因は、目的性のある練習だけなのだ。
 エリクソンらはこの発見に驚愕し、傑出性の理解におけるパラダイムシフトの先鞭をつけたと感じた――つまり最終的に重要なのは才能ではなく練習なのだ。彼等はこう書いた。「われわれはこうした(技術水準)のちがいが普遍であること、つまりは生得的な才能によるものであることを否定する。むしろ、優秀な演奏家とふつうの大人とのちがいは、生涯にわたり技能を改善しようと意図的に努力してきたこだわりの結果を反映しているのである」。(p.17)

10年、一万時間ルール

 で、圧倒的な時間量ってどれくらいなのか、というのが次の問題。

 そこで問題。傑出するためにはどれだけ練習すればいい?広範な調査の結果、じつはこの質問にたいしてはきわめて明確な答えが出ている。芸術から科学から、盤上の遊びからテニスまで、あらゆる複雑な作業において世界のトップに達するには、最低でも10年は必要だということがわかっているのだ。
 たとえばチェスでは、アメリカの心理学者ハーバート・サイモンとウィリアム・チェイスの調査によって、グランドマスター(最高位)の水準に達した人で「10年以上の集中的な訓練を積んでこなかった」人物は一人もいないことがわかった。音楽でも、ジョン・ヘイズの調査により、傑出した存在となるには10年の献身が必要だということがわかっている。この結果は彼の著書『完全なる問題解決者』の中心的な主張となっている。
 20世紀最高のゴルファー9人を分析したところ、はじめて国際大会で優勝したのはみな25歳くらい、つまりゴルフをはじめてから平均して10年以上あとだった。同じ結果が、数学、テニス、水泳、長距離走といったまったく違う分野でも出ている。
 これは学問の世界ですら言えることだ。19世紀最大の科学者120人と、もっとも有名な作家や詩人123人を対象にした調査では、処女作から最高傑作を書き上げるまでに10年かかっていることがわかった。10年というのが、傑出性を実現するためのマジックナンバーなのだ。(p.20-21)

 10年か…。ほぼ日で、吉本隆明さんが語ってた「10年、毎日続けたらいっちょまえになる」の話とまったく同じ結論かよ!
 年末に保育園のママ友たちの前で子どもたちにインスト(みたいなこと)をする機会があって、「なんか慣れてるね」と言われたのだけど、それも子どもたちの前に10年以上立っているから、それなりに自分でも安心感があるって感じだなあ。教室に自信をもって立てるようになったのって、仕事を初めてから十年くらい経ってたなあ、とか。いろいろ思ってしまった。

 そうすると、プロプレイヤーたちだって、最初からすごかったわけではもちろんなく、ひたすら練習をしたんじゃないか?って話になる。でも、「ひたすら練習をできる」っていうこと自体が、誰にでもできることじゃないから、やっぱりすごい!ってことだけどね。

 この議論において重要な点は、こうしたことがトップクラスのスポーツ選手たちに生まれつきそなわった能力ではない、ということだ。技術を学んでいる時代に戻れば、フェデラーも鈍重でグズだっただろう。技術を意識的にコントロールしようとする動きには、なめらかさもまとまりもなかっただろう。無数の練習を経たあとになってやっと彼の技能は統合されて、そのフレキシブルな実現を可能とする、繊細な処理手順の集合となったのだ。
 今日では、フェデラーの運動プログラムはあまりに深く内部化されてしまっているので、どうして絶妙なタイミングのフォアハンドを打てるんですか、と尋ねたところで、当人も答えられないだろう。ショットのときになにを考えていたか、そのショットが戦略的にどれほど重要だったかについてなら話せるだろうが、そのストロークを可能にした力学については、なんの洞察も与えることはできないだろう。なぜか?フェデラーはあまりに練習しすぎていて、その動きは明示的な記憶ではなく、暗黙の記憶としてコード化されてしまっているからだ。これは、心理学者の言うところのいわゆる「無念無想の境地(熟練性健忘)」だ。
(略)
 すばらしいショットを生み出すには、「身体に覚えさせる」のではダメだ。記憶は脳と中枢神経系にコード化して記録されるのだ。
 肉体と先天性にたいする、精神と後天性の優位は、なんどもなんども確認されている。いまや傑出性にかんする世界最高の権威として広く知られるアンダース・エリクソンはこう言う。
 「もっとも重要なちがいは、低次の細胞や筋肉群にあるのではなく、スポーツ選手が自分の身体の統合され、協調のとれた動きを高度にコントロールできるかどうかにある。傑出した技能は、後天的に獲得された心的表象(mental representation)によって仲介され、それによりエキスパートは各種の行動を予測し、計画して理由づけることができる。そしてこうした心的表象こそが、エキスパートがそのすぐれたパフォーマンスを生み出すのにつながる側面を、よりうまくコントロールできるようにしてくれるのだ」
 言い換えると、成功の鍵を握るのは才能ではなく練習なのだ。(p.43-45)

スポーツだけじゃないよね

 「才能が大きく関係する」と思い込んでいることで、僕らはいろんなことを諦めてしまっているのかもしれない。10年も何かに賭けてがんばるのって、大変だから。スポーツだけでなく、政治の世界の例も挙げられている。これ、ほんとそうだな、と思う。

 才能という幻想があると、人びとははじめのうちに急速な進歩が見られない場合、あきらめてしまいがちになる、と先に述べた。いまなら、この幻想がさらに有害であることがわかる。組織は経験のない個人―推進力はすぐれているのだが―を権力の座につけようとするからだ。
 たとえば、イギリスでは大臣―全国でもっとも力のある男女―をあちこちの省にたらいまわしにして、そのどれについてもじゅうぶんな知識ベースを発達させる機会を与えない。これがイギリスの行政にどれほどの被害を与えているか考えていよう。最近のイギリスでは、大臣の平均在任期間は1~7年だとされる。ブレア政権で長く閣僚をつとめたジョン・リードは、7年で7回にもわたり、省庁をたらいまわしにされた。これはタイガー・ウッズをゴルフから野球、次にサッカー、その次はホッケーへとローテーションさせ、しかもどの分野でもトップクラスの成績を挙げろと言うに等しい。
 練習と知識の相対的な重要性、あるいは逆に才能の重要性についてどう考えるかは、自分じしんや家族にとって大きな意味をもつだけではない。企業、スポーツ、政府、そして人工知能の将来にすら、大きな意味をもつのだ。(p.60-61)

 まったくだよね。じっくり育てる、という視点はいる、というか、ちょっとやってみて「わかった」っていうのやめよう、と思ったw

親としていろいろ考える

 親子鷹でプロスポーツの世界へ…っていうのは多いけれど、それはプロに行くまでの年齢(ティーンエイジャーくらいにはけっこうはっきりしてなきゃダメだよね?多くの場合)に、圧倒的な時間をかけて練習をするためには、親の関わりが大きいからだ。超有名なアスリートたちの言葉が紹介されてます。

 頂点にいたる最良の道については、またべつの問題がある。数千時間かけなければ傑出の域に達しないとしたら、モーツァルトやウッズやウィリアムズ姉妹のように、五歳にも満たないうちから訓練をはじめるのは理にかなっているだろうか?利点は明らかだ。若いプレイヤーは、たいていの場合のように数年後からトレーニングを開始した人間よりも、かなり有利なスタートを切ることができる。
 だが、まったく本物の危険も存在する。意味のある練習を重ねるには、なんであれその専門分野に献身的に取り組むことを本人が決意しなければならないのだ。親や教師がそう言うからではなく自分のために、みずからの行動に関心をもつ必要がある。これを心理学者は「内的動機」と称している。あまりに幼くして訓練をはじめ、無理強いされた子どもたちは、これがかけていることが多い。だから傑出することなく燃え尽きてしまうのだ。
 「あまりに幼いうちから訓練をはじめるのは非常に危険です」と、すぐれたスポーツ科学者で、2008年の北京オリンピックでイギリスを成功に導いた立役者、ピーター・キーンはこう言う。「ごく早期に発達が見受けられるのは、子どもが両親やコーチのためではなく、みずから時間をつぎこむ気になった場合のみです。子どもの考え方や感じ方に敏感になるには、過度のプレッシャーを与えずにトレーニングをうながすことが重要です」。
 だが意欲が内面化されたら、子どもは練習をつらい仕打ちではなく楽しいことだと見なす。テニスの神童、モニカ・セレシュはこう語っている。「ただ練習とか訓練とか、そういったものが大好きなの」。セリーナ・ウィリアムズはこう語っている。「練習できることがありがたかったわ。とても楽しかったから」。そしてタイガー・ウッズ。「お父さんは、ゴルフをしろなんて命令したことはないね。ぼくのほうが頼んだんだ。大事なのは、プレーしたいという子どもの気もちであって、親が子どもにプレーさせたいという欲求ではないんだ」。(p.71-72)

 こんなふうに数字に触れたり、形に触れたり、物理法則に触れたり…というのが、いわゆる勉強の基礎体力にもなるのだろうなあ、と思ったり。


 ボードゲームでもきっと一緒。ラズロ・ポルガーという人がいる。教育心理学者で、「傑出世練習説」の初の提唱者の一人らしい。この人、すごいです。日本では決して認められない実験だと思うけど、機会さえ与えられれば、才能ではなく努力に重点をおくことで教育制度を変えられると信じていて、3人の娘に、4歳にもならないうちから、一日に何時間もチェスを教えたんだって。(ポルガー自身は趣味でチェスをするだけだった) 結果、青年期にさしかかるころには、三人とも一万時間をゆうにこえる専門的な練習を重ねていた。チェスの歴史においてほかの女性がかなう練習量ではないのはおそらくまちがいないです。で、その結果、スーザン・ポルガー、ソフィア・ポルガー、ユディット・ポルガーの三姉妹は、チェスプレイヤーとして世界最高峰になったのだそうな。仮説、大検証!って感じですね…。
 でも、世間は、「彼女たちの才能が導きだした結果だ」というふうに確信し、彼女たちの努力の成果だとは思われなかった、と。(p.73-80) これも、「才能だ」って逃げちゃうほうが楽なんだってことだろうなあ。

じゃあ、才能なくてもうまくやるには?

 本の後半は、一万時間ルールからはちょっと離れていくな、というイメージなんだけど、どうすれば成功するのか、というマインドセットが紹介されています。

 近年もっとも成功しているサッカークラブ監督の一人、アーセン・ベンゲルはこう語っている。「できるかぎりのパフォーマンスをするには、論理的な正当化をはるかにこえる強さで信じることを自分に教えてやらなければならない。この非合理的な楽観能力を欠く一流選手はいない。そして合理的な疑いを心から取り払う能力なしに、最大限の力を発揮できたスポーツマンもいないのだ」。(p.186)

 「論理的な正当化をはるかにこえる強さで信じること」か。そうでもなきゃ成功しないよね。何でもスマートにやろうと思って、斜に構えてちゃだめだな…←僕だ…


 もうひとつ、二重思考(ダブルシンク)という考え方も紹介されています。これもいいな。

 ジョージ・オーウェルの『一九八四年』を読んだ人は、この考え方に妙に覚えがあるのではないだろうか。このきわめて鋭い小説で、オーウェルは「二重思考(ダブルシンク)」という言葉を導入した。オーウェルは次のように説明している。

 二つの矛盾した信念を同時にもち、その両方を受け入れる力。(中略)不都合になった事実はすべて忘れて、また必要になったら忘却の彼方から必要なぶんだけ引き戻してくる。(中略)このすべてが必要不可欠なのだ。

 『一九八四年』が発表された当時、批評家の多くが二重思考など、心理学的にまゆつばものだと主張したが、じっさいはごくありふれたことだ。二重思考は一流スポーツマンやそのほかの一流パフォーマーの成功には欠かせない。(p.194)

 いやー、ものすごくおもしろかった。けっこう夢中で読んだ感があるわ。教育関係にも応用できそうな部分が多かったので、また読み返したいな、と思う本。